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『認識不足の一言』

木曜日, 4月 15th, 2010

医薬品情報21

古泉秀夫

『薬に関する情報は書籍やインターネットなどにより格段に入手しやすくなり、情報の加工についても各自が作成する時代は過ぎ、いわゆる既製品を手に入れやすい時代になっているようだ。情報を入手することに関しては、経験などというものは、もはや関係なくなって来ているように思える』なる一文を拝読した。

もし、これを本気で言っているとすれば、失礼だが薬の専門家の風上に置けないと言わざるを得ない。30年の病院薬剤師の経験に基づいてという仰有り様だが、嗜虐的な意味での発言ではなく、本当にそう思っているとすれば、群盲『象』を評すの類の話である。

確かに、従前との比較でいえば、薬に関する書籍の出版数も増え、種々の情報を入手しようとすれば、比較的簡単に入手することができる。しかし、その図書に書かれている情報が正鵠を得たものであるかどうかについては、図書を利用する側が自ら判断しなければならない。成書として市販されているからといって、その情報が必ずしも正しいとは限らない。執筆者の誤謬による書き間違いもあれば、編集者による誤植も起こる。それらの細かな間違いについても利用する側に情報を評価する眼がなければ、誤りのまま摺り抜けてしまう。

現在、病院の薬剤部で情報を検索する場合、Internetの利用が行われている様である。確かにInternetの使用により広範囲に・素早く情報が検索出来ることは事実である。しかしInternetに公開される情報の怖さは、その発信者が誰なのか確認しようがないということであり、玉石混淆の情報が、垂れ流されているということである。その中から正確で、信頼出来る情報を掴み出すためには、その情報が信頼に足るものであるかどうかの評価をする専門職能としての厳密な眼を持たなければならないということである。またそれ無しでは、入手した情報を使いこなしたことにはならない。

情報の加工について、各自が作成する時代は過ぎとのお言葉であるが、果たしてそうであろうか。少なくとも情報の意味を全く理解していない素人の言い分としか思えない。情報の加工とは、情報を収集し、分析し、評価し、自ら使い勝手の良い様に加工する。或いは情報の利用者である医師・看護師等の使い易いように情報を加工して提供するという、一連の流れの中の一つの作業が加工なのである。従って、情報の加工をしないと言うことは、製薬会社・卸等から手に入れた情報を、自らの判断を全く加えずに、単に手渡して済ますという、経験の少ない薬剤師か、素人のやる行動を取るということである。

『情報を入手することに関しては、経験などというものは、もはや関係なくなってきている様に思うという』御意見に対しても、異論がある。出来合の情報が、必ずしも精度の高い情報とは言えない場合がある。あるいは使用性の高い情報とはなっていない場合がある。

そのような場合に、何処を探せば必要な情報に行き合うことができるのかを素早く判断するのは、経験以外の何物でもない。

information literacy(情報活用能力)なる言葉がある。文部科学省の臨時教育審議会第2次答申(1986年)では「情報及び情報手段を主体的に選択して活用していくための個人の基礎的な資質」と定義され、学校教育でいう“情報リテラシー教育”は、広義の情報リテラシーを指している。広義には情報機器の操作能力だけではなく、「情報を活用する創造的能力」のことを指し、情報手段の特性の理解と目的に応じた適切な選択、情報の収集・判断・評価・発信の能力、情報および情報手段・情報技術の役割や影響に対する理解など、『情報の取り扱いに関する広範囲な知識と能力』のことをいうとされている。薬という生命関連物質を管理する薬剤師が、常に最先端の薬の情報を取り扱うのは当然のことである。更に情報伝達の相手は、医師・看護師のみならず、在宅介護をしている介護士の方々まで含めて、広範囲にわたる。何故なら医療機関から最も遠いところにある介護受給者は高齢者であり、認知症患者であり、薬の管理ができない情況に放置されている。これらの方々に薬剤師として情報を提供することは重要な課題である。

また、医師は薬を使用する場合、効果には興味を持つが、服むことによって派生するであろう副作用については比較的眼を向けていない。薬剤師は医師の書く処方内容を検討し、予防可能な副作用は予防し、誰よりも速く発見し、医師と処方内容について話し合いをし、副作用の原因となった薬を削除する。この様な情報管理をするとすれば、この方の文書が、薬剤師の行うべき情報管理業務を真に理解していないということは明らかである。

(2010.2.2.)