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『東大島神社から亀戸浅間神社』

日曜日, 2月 21st, 2010

鬼城竜生

 『江東区観光イラストマップ』なるものがある。江東区区民部経済課が発行した資料である。

 その地図の都営地下鉄新宿線の“東大島駅”(ひがしおおじまえき)の近くに、浅間神社がある。神社の名前の隣に“茅の輪くぐり”のイラストが描かれており、マップの裏の説明文に、伝統の神事「茅の輪くぐり」では、日本一のジャンボ茅の輪が作成され、名物になっているという記載がされていた。

 大体“茅の輪”が何の目的で作成されるのか知らなかったが、日本一となると覗いてみたいという野次馬根性から行くことにした。しかし、見に行くのに“茅の輪くぐり”を知らないでは片付かないので、調べてみることにした。

 するとどうだ、『大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われる除災行事である。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。輪くぐり祭とも呼ばれる。701年の大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められた。この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣(おおおみ)ほか京(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓った。』という解説がされていた。

 なんと、法律によって定められた神事であり、嘗ては国を挙げてやっていたことのようである。

 夏越の祓については、多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。『釈日本紀』(卜部兼方 鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では、茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。また、茅の輪の左右に設置する笹竹に願い事を書いた短冊を振下げ、七夕に河川に流すといった俗信仰は、書初めを“どんどん焼き”で焚くと習字が上達するといった行事と対応しているとする報告も見られる。

イラストマップによると、東大島駅の直ぐ近くに“東大島神社”があると紹介されている。折角、遠路遙々訪ねて行くので、この神社にも御参りし、出来れば御朱印を頂戴したいと考えていた。

 6月25日(木曜日)、大門で都営浅草線から都営地下鉄大江戸線に乗り換え、森下駅で都営地下鉄新宿線に乗る行程で東大島駅に下車した。しかし、直ちに到着するはずの東大島神社が、中々道が分からず、迷いに迷い、最後は道行く地元民と考えられる年寄りに道を尋ねた。もうすぐ其処ですよという言葉に励まされて辿り着いてたが、何のことはない駅から素直に歩いてくればさほどの距離でなかったものを却って遠回りをしてしまったようである。

 本殿の御参りをして境内の種々写真を写した後、御朱印を頂戴するため、社務所を訪ねた。出てきた神主さんは、暑い中良く御参りくださいました。しばらくお待ちくださいと云って一度下がると、冷たい麦茶を持参してくれた。初めての経験なので、思わずどうも恐れ入りますと御例申し上げたが、よほど熱中症でも起こりそうな顔をしていたのかと反省した。しかし、冷えた麦茶は、将に甘露、甘露というに相応しく躰の隅々に染み込んだ。

 その時頂戴した“江東区の氏神さま”という栞によると、東大島神社の御祭神は天照皇大御神、牛島大神、稲荷大神とされている。同社は戦災により焼失した東大島地区の五つのお社(永平神社・子安神社・小名木神社・北本所牛島神社・南本所牛島神社)を戦後合併し、五社のほぼ中心に建てられました。平成14年には御鎮座五十年記念事業として、社殿の修復が行われ、昭和53年に竣工したお社が綺麗に甦りましたと解説されていた。

 戦災により焼失したという神社やお寺に行き合う事があるが、古い建物(文化)を壊してしまうのは、人間の愚かさの現れであると思うが、見てみたかったとしみじみ思うのは、燃えて無くなる前の写真などを見た時である。形あるものは壊れるというのは一つの真実であろうが、戦争で無理矢理壊す必要は更々無かったのではないかと思う。

 茅の輪の亀戸浅間神社を拝観すべく、目指したが、本日は道に対する勘が完全に鈍っており、また、目的地が解らなくなった。横断歩道で、子供達の安全確保に働いているおじさんを見かけたので、訪ねたところ、そのバス停の前の道を入れば直ぐだと教えられた。実はさっきその前は通ったのだが、まさかと思ったのは、マンションの庭の中に入るのではないかと躊躇ったからである。しかし、どうやら其処を突き抜けた先に神社はあったようである。

 同社は大永七年(1527年)の創立と伝えられているが、安政二年(1855年)の大地震で社殿が倒壊。明治十一年(1878年)に富士山より溶岩を運んで富士塚を築き、その上に社殿を再建した。大正十二年(1923年)関東大震災により、再び社殿は被害を受け、現在の社殿はその後に建てられたものだという。その後戦災を免れ、戦前の姿を残す貴重な木造建築の社殿として、富士塚北側の現在地に移された。境内には富士講関係その他の石碑、石灯籠、鳥居など、石造物が安置されている。また富士塚は柵で境内と隔てられているが、神使の猿や講元の石碑などがそのまま残っている。なかでも「たのみの辞碑」は、この地の由来を記したものとして有名。また伝統の神事「茅の輪くぐり」では、関東随一のジャンボ茅の輪が知られているの紹介が見られる。

 御祭神は木花咲耶姫である。

 ところで東大島神社に合祀されているなかに、聞き慣れない神様がいたが、一体“牛島大神”とはどんな神様なのか、調べることにした。読み方は“うしじまのおおかみ”ということのようである。牛島の名前が付いたのは、天武天皇の時代(701-764)に、隅田川に沿う旧本所一帯(両国-向島)が牛島という島であったこと、浮島牛牧といわれ国営牧場が設置されていたことによるといわれている。

 牛嶋神社は隅田川の東岸、もと水戸徳川邸跡の隅田公園に隣接する墨田区向島一丁目四番地に鎮座している。古くは本所区向島須崎町七十八番地(向島・長命寺の近く)にあったが、関東大震災後隅田公園の設計の都合上、昭和の初め現位置に再建されたという。明治維新前は本所表町(現・墨田区東駒形)の最勝寺がその別当として管理していたが、明治初年の神仏分離後『牛の御前』の社名を『牛嶋神社』と改め郷社に定められた。

 神社に伝わる縁起書によると、貞観二年(860年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀し後、天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし『王子権現』と称した。例祭日九月十五日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行った日であるといわれている。

 治承四年(1180年)九月源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水の為に渡ることが出未なかった。その時武将千葉介平常胤が祈願し神明の加護によって全軍無事に渡ることができたので、頼朝はその神徳を尊信して翌養和元年(1181年)に社殿を経営し、千葉介平常胤に命じて多くの神領を寄進させた。永禄十一年(1568年)十一月に北条氏直が関東管領であった時、大道寺駿河守景秀が神領を寄進している。また天文七年(1538年)六月二十八日に後奈良院より『牛御前杜』との勅号を賜ったといわれる。

 “牛島大神”については、単に日本神話の神とする説明も見られるため、上の説明とは異なる神様なのかもしれないが、牛嶋神社の御祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)とされているが、少なくとも須佐之男命は日本神話の時代の神であり、牛嶋神社と同じと考えて良いのかもしれないが、確信はない。

 帰りは総武線の亀戸駅を目指して京葉道路を歩いた。総歩行数13,230歩。

(2009.9.11.)