『目黄不動から目白不動・雑司ヶ谷鬼子母神』
火曜日, 2月 2nd, 2010鬼城竜生
目青不動・目赤不動とくれば、次は目白・目黒不動ということになるのかもしれないが、先に目黄不動に御参りすることにした。どういう訳か目黄不動は二つあるが、取り敢えず天台宗の永久寺(台東区三ノ輪)に出かけることにした。
2009年6月20日(土曜日)『蒲田→人形町→三ノ輪』、都営浅草線から都営日比谷線に乗り継ぎ、三ノ輪駅で下車した。分かってみれば駅を上がった直ぐ隣に永久寺は立っていたが、街中の地図の読み方がよく分からないという弱点を表し、暫くウロウロと探し回った。ただ、どういう訳か、『でっか字まっぷ東京23区(昭文社2版,2008)』には、三ノ輪駅の近くに“永久寺”の記載はされていなかった。
所で五色(東都五眼)不動尊について、江戸時代には五眼不動といわれ、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示すもので、その由来については諸説あるが、各位置は江戸条(青)を中心として、それぞれ水戸街道(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤・南谷寺)、甲州街道(白・金乗院)、東海道(黒・瀧泉寺)といった江戸府内を中心とした五街道沿い又は近くにあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたという説が紹介されている。但し、色はあくまで仏教上の方角を示すもので、眼に色があるわけでは無いともいわれている。
ただ、この配置について、江戸城を守るために置かれたとする考え方には、若干無理があるような気がするのである。何故なら寺院によっては、比較的簡単に移動しているという実態があるからである。
物の本によると、天台宗永久寺は、古くは真言宗で唯識院と号したが衰退し、道安により禅寺として再建され白岩寺と改称した。だがまたも衰退したので、月窓が修復して蓮台寺に改め、日蓮宗に転じた。月窓は四代将軍家綱の生母宝樹院の弟であったことから、幕命によって日光門主本照院宮の弟子になって圭海と名乗り、蓮台寺を天台宗に改めた。いっぽう同寺の檀家で本所に住んでいた山野加右衛門永久は人を切ること一千人に及んだので、殺害した人々の亡霊を供養するために諸堂を建立し蓮台寺に寄進した。それによって同寺は永久寺と称するようになったという。不動堂があり、三尺六寸の慈覚大師作と伝える出世不動明王像(目黄不動)が安置されている。江戸五色不動の一。境内は年貢地で、西側には門前町屋があったとされるが、今は一見すると普通の民家みたいに見える。
日光街道を渡り、常磐線の線路をくぐると都電荒川線の三ノ輪橋駅に出る。何軒かの商店が並ぶ商店街を抜けると、そこにチンチン電車の駅があった。早稲田行きの電車に乗って雑司ヶ谷駅で下車、雑司ヶ谷鬼子母神本坊に向かった。威光山法明寺[雑司ヶ谷鬼子母神本坊]とする由緒書きを頂いたが、どうやら法明寺に連なる名刹が鬼子母神堂ということのようである。最もこれは後で知ったことで、参拝に行ったときには思いもしなかった。
由緒によると鬼子母神堂にお祀りする鬼子母神(きしもじん)の尊像は、室町時代の永禄四年(西暦1561年)一月十六日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、密かに尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正六年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。現在のお堂は、本殿が寛文四年(1664年)徳川四代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自証院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われましたとされている。
鬼子母神堂の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い 「雑司ケ谷鬼子母神」と尊称していると解説されている。
目白不動金乗院は、真言宗豊山派目白不動 東豊山 新長谷寺 金乗院という長い肩書きが付いているお寺で、目白不動金乗院のしおりによると『目白不動堂は東豊山浄滝院新長谷寺と号し、金乗院より東へ約1km程の早稲田方面を臨む高台、文京区関口駒井町にあったが、昭和20年5月25日の戦災で焼失したため、金乗院に合併し、本尊目白不動明王を金乗院に移した。新長谷寺は奈良県桜井市真言宗豊山派総本山長谷寺末であり、本尊目白不動明王は江戸三不動(目白、目黒、目赤)の第一位、東都五色不動の随一として名高い。
本尊不動明王は、弘法大師作と伝えられ、高さ八寸、断臀不動明王(だんびふどうみょうおう)といい秘佛である。断臀不動明王は縁起によれば、弘法大師が唐より御帰朝の後、羽州(今の山形・秋田県)湯殿山に参籠されたとき、大日如来が忽然と不動明王の御姿と鳴り、滝の下に現れ、大師に告げて、「この地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり、故に凡夫登山すること難し、今汝に無漏の浄火をあたうべし」といわれ、持てる利剣をもって、自らの左の御臀(おんて)を切られると、霊火が盛んに燃え出でて、仏身に満ちあふれた。そこで大師はその御姿を二体に刻んで、一体は同国荒沢に安置し、一体は大師自ら護持されたという。その後、野州(今の栃木県)足利に住した某沙門が、これを感得して捧持していたが、武蔵国(今の東京都)関口の住人松村氏が霊夢を感じて、本尊を足利より移し、地主渡辺石見守より藩邸の地の寄進を受け、一宇を件立した。これが本寺の濫觴(らんしょう:事の始まり)とされている。
その後、元和四年(1618年)大和長谷寺第四世小池坊秀算僧正(1572-1641年)が中興し、二代将軍秀忠公の命により堂塔伽藍を建立し、また大和長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像を移し、新長谷寺と号した。寛永年中、三代将軍家光公は、特に本尊断臀不動明王に目白の号を贈り、江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の一つとして、以後は目白不動明王と称することになった。またその辺り一帯を目白台と呼ぶことになった。元禄年中には五代将軍綱吉公及び同母桂昌院の篤い帰依を受け、度々の参詣があり、堂塔伽藍も壮麗を極め、門前町家19軒、寺域除地1,752坪、「境内眺望勝れたり、雪景もっとよし」(江戸名所絵図)とされていた。
本日の総歩行数8,676歩。歩いたと思う割には歩行数が少なかったが、時間がかかったのは三ノ輪から乗車したチンチン電車の行程が意外と時間を食ったからではないかと思われた。
(2009.9.4.)