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鎌倉宮(大塔宮)及びそれから

金曜日, 1月 1st, 2010

鬼城竜生

 京浜急行の車内広告で、ヤマアジサイの花が見頃という案内を見て、それまで電車の乗り換えが面倒だというので、敬遠していたのだが、鎌倉宮に行ってみることにした。家の近辺で咲いている紫陽花はまだ見頃という所まで咲いてはいないが、ヤマアジサイの花は早いというので、6月2日(火曜日)に出かけることにした。

 金沢八景からバスで鎌倉に入る道順があるということで、京浜急行に乗ったが、何を勘違いしたのか、金沢文庫で降りてしまい、バス停を探したが見あたらない。バスの切符売り場があったので、中にいる職員に尋ねたところ、金沢八景から出るバスだといわれてしまった。駅を間違えたのは、金沢八景は魚釣りの時に降りる駅のため、何回か降りたことがあり、バスターミナルがあるような雰囲気はなかったからである。しかし、実際には金沢八景の駅を出て、そのまま大通りに出た斜向かいにバス停はあり、更には駅を出て左側に入ったところに始発のバス停はあったようである。何せ駅前のバス停にバスが来たとき、既に何人かの客が乗車していた。金沢八景→鎌倉行きのバスの時間は8:06・8:26・8:47・9:17・9:47とあまり本数は多くなかった。

 金沢八景を出発したバスは、狭い山間の道を走る部分もあったが、『岐れ道』という粋な名前のバス停で降りると、向かい側に鎌倉宮への案内がされていた。案内に従って、その道を辿り始めると、暫くして左手に“荏柄天神社”の大きな鳥居が眼に入った。

 御祭神は“菅原道真公”で、御朱印を頂いたときに付けてくれた小冊子の“由緒”によると、

『当社は、古くは荏柄山天満宮とも称され、荏柄の社号は、天平七年(735年)の“相模国封戸租交易帳”などに見える「荏草郷」の”えがや”が後に転じて”えがら”となり、「荏柄」と表記されたものと考えられている。また、長治元年(1104年)晴天の空が突如暗くなり、雷雨とともに黒い束帯姿の天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が社殿を建ててその画像を納め祀った縁起に始まる。

 関東を中心に各地に分社をもち、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と共に三天神社と称される古来の名社である。治承四年(1180年)鎌倉大蔵の地に幕府を開いた源頼朝公は、当社を鬼門の守護神と仰ぎ、社殿を造立された。

 以後、歴代の将軍家を始め、鎌倉幕府の尊社として篤く崇敬され、「吾妻鏡」には二代将軍頼家が、大江広元を奉幣使として菅公三〇〇年忌を盛大に執行された事など、社名がしばしば記されている。

 この様に中世より特に崇敬された当社は、足利、北条、豊臣、徳川の各氏によっても守られ、さまざまな寄進を受けて近世にいたった。現在では学問の神、正直者、努力を重ねるものを助ける神として多くの方々が参拝され、社殿はいつも「祈願」「お礼」の絵馬で覆われている。』とする説明がされている。

 その他境内には“絵筆塚”、“かっぱ筆塚”が見られた。軸の部分に大御所漫画家達のカッパ絵のレリーフが貼付けられているといわれるが、こちらとしては、現地を踏んでいながらカッパの絵には全く気付かなかった。

 荏柄神社を出て左のに行くと。鎌倉宮に到着する。鎌倉宮が大塔宮とも書かれているので、何のことかと思っていたら、鎌倉宮に祀られている“護良親王(もりながしんのう)”の名前で“おおとうのみや”と呼ぶようである。

 鎌倉宮の由緒については、大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)をお祀りする神社ということである。護良親王は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になり、6歳の時に京都の三千院にお入りになり、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれていたという。また、大塔宮とも呼ばれており、20歳にして天台座主(てんだいざす)となられたとされている。

 当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は、国家の荒廃を憂い、親王と共に元弘元年(1331年)6月、比叡山で討幕の挙兵をする手筈になっていたという。しかし、この計画は幕府の知るところとなり、天皇は捕らえられ、隠岐に配流となった。親王は還俗して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず、大群を吉野城や千早城に引きつけました。この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利高氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。

 後醍醐天皇は京都に還御(かんぎょ)され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となりますが、足利高氏は、征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は高氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めましたが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、建武元年(1334年)11月15日、鎌倉東光寺の土牢に幽閉された。建武二年(1335年)7月23日、残党を集めて鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた高氏の弟、足利直義は、逃れる際に、家臣淵辺義博へ親王暗殺を命じた。親王は9ヵ月もの間幽閉された後、御年わずか28歳という若さで生涯を薨(こう)じられた。

明治二年二月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、親王の遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれた。親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられた。明治六年四月十六日、明治天皇は鎌倉宮に行幸され、本殿をお参りするとともに、土牢をご覧になり、その後境内の行在所でお休みをとられたということで、その行在所の跡が、現在の鎌倉宮宝物殿・儀式殿となっているということである。

 歴史上の人物が、次々に出てくる鎌倉宮の由緒は、将に歴史物語ともいうべきもので、甚だ人間くさい成り立ちをしていると云うことで、親しみやすい神社だと云うことができる。また、鎌倉宮獅子頭が、厄除け、幸運招来として授与されているが、これは護良親王が悪魔祓いに採用されていたことに由来するとされている。

 鎌倉宮に来た目的は、山紫陽花の花が見頃という案内に導かれて来たのだが、山紫陽花の花そのものが地味なところにもってきて、移植し始めてまだ間がないと見えて、本数も少なく、もう少し数がほしいという気分であった。

 今回の鎌倉行きのもう一つの目的は、山紫陽花を見るという目的以外に、臨済宗建長寺派“円応寺”の閻魔大王を拝観するということであった。そこで荏柄天神社の門前にあった食事処で蕎麦を食べるとともに、店の方に円応寺まで歩いたらどの程度かかるかお訊ねした。道を知っていて歩き馴れた私達だったら40分位でいけると思うけど、どうですかねという返事だった。甚だ正直でよろしいんですが、道案内としてはちょいと解り難い。ただ、年寄りが歩くことを考えれば、1時間以上かかると云うことであろうと勝手に解釈した。道のあちら此方にある案内に従って歩いているうちに、頼朝の墓なるものに辿り着き、階段を上がって行くと、石重ねの塔が立っていた。

 写真だけ撮らせて頂いて更に行くと、中学生位の5-6人のグループが、地図を片手に“鶴岡八幡”はこっちにあるなどと叫びながら走っていたので、その後を突いていった頃修学旅行の大集団に行き当たった。

 何れにしろ来たついでに写真を撮ろうということで境内に入ったが、境内の広さには驚かされた。鶴岡八幡宮の由緒については、ご参拝のしおりに書かれていたが、康平六年(1063)源頼義が、奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した石清水八幡宮(京都)を、由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりだという。

 その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承四年(1180)鎌倉に入るとともに直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久二年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく、上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としたものであると解説されている。 また、頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今も引き継がれる社頭での神事や行事を興し、 関東の総鎮守として厚い崇敬の誠を寄せられた。 以降、当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰が全国に広まった。 当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となった。 現在では国際的史都鎌倉の中心的施設として、国の内外より年間を通して数多の参拝者が訪れます。

 現在の御本殿は、文政十一年(1828)、江戸幕府十一代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、若宮とともに国の重要文化財に指定されている。深い杜の緑と鮮やかな御社殿の朱色が調和する境内には、源頼朝公、実朝公をお祀りする白旗神社をはじめとする境内社のほか、静御前ゆかりの舞殿や樹齢千年余の大銀杏が八百年の長い歴史を伝えている。

 兎に角、無闇に赤塗りの目立つ建物の神社ではあるが、直ぐ近くにある“白旗神社”が甚だしく地味に見える。所でご参拝のしおりには載っていないが“さざれ石”なる地味な石が境内に置かれているが、君が代に歌われるさざれ石であるという説明がされていた。

 八幡宮の直ぐ近くに円応寺はある。円応寺は、閻魔大王を本尊として智覚禅師により建長二年(1250年)に創建された寺である。閻魔堂、十王堂とも呼ばれ、亡者が冥界において出会う『十王』を祀っている。円応寺は初め見越獄(みこしのごく)にあったが、足利尊氏が由比ヶ浜に移築し、その後、元禄十六年(1703年)に起きた大地震の後に現在地に移転したといわれている。由比ヶ浜時代は荒井閻魔堂と呼ばれていたの報告も見られる。本堂には仏師運慶作と伝えられる閻魔大王像(国重要文化財)が正面に据えられ、左右に十王像が並ぶ。

 口伝では頓死した運慶が、閻魔大王の前に引き出されたが、閻魔さんの『汝は生前の慳貪心(けんどんしん:物惜しみし、欲深いこと)の罪により、地獄に堕ちるべき所であるが、もし、汝が我が姿を彫像し、その像を見た人々が悪行を成さず善縁に赴くのであれば、汝は娑婆に戻してやろう』と云われ、現世に生き返された運慶が彫刻したと云われた。運慶は再び生き返った喜びで、笑いながら彫刻したため、閻魔さんの顔もどことなく笑っているように見えることから、古来『笑い閻魔』とも呼ばれているとされる。

 鎌倉時代に流行った十王思想では、死後人間の罪業を裁くとされている。十王のうち、初江王(しょこうおう)は、現在鎌倉国宝館に寄託されているという。閻魔大王は撮影禁止と云うことで写真は撮れなかった。そこで閻魔さんを写した絵はがみたいなものはありませんかと確認したが、無いということであった。

 続いて“建長寺”によった。『天下禅林』(人材を広く天下に求め育成する禅寺)ということで、西の外門(北鎌倉側門)に掲げられている言葉で、我国最初の禅宗寺院で、鎌倉五山第一位の建長寺を象徴する語だとしている。

 しかし、兎に角広い、広すぎて写真向きではないと思われたが、それなりに枚数は撮れた。建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山で、建長五年(1253)北条時頼が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として創建した、わが国最初の禅の専門道場。 最盛期には塔頭が四十九院あったが、火災により焼失。現存する建物は江戸時代以降に再建または移建されたものである。 総門、三門、仏殿と一直線に並ぶ伽藍の周囲を十の塔頭寺院が取り囲む。 寺宝も豊富で、木造漆塗りの須弥壇、木造北条時頼坐像などの国重文がある。絵画、書の優品も多数。境内は史跡という説明がされているが、そういう話だと元はもっと広かったと云うことなんだろうね。

 北鎌倉に行く道筋を辿っていたら“明月院”の案内が眼に触れたため、寄っていくことにした。明月院は臨済宗建長寺派福源山明月院と称し、境内に多くのアジサイが植えられ、?アジサイ寺″とも呼ばれている。明月庵の創建は今から八三〇年前、永歴元年(1160年)に始まるとされている。この地の住人で、平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の菩提供養として俊道の子、首藤刑部太夫山ノ内經俊によって創建。その後、康元元年(1256年)、北条相模守時頼公によって、この地に「最明寺」を建立。後に北条時宗(時頼の子)が最明寺を前身として「福源山禅興仰聖禅寺」を再興。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。 明治期に禅興寺は廃絶され、現在は明月院だけが残されている。宗猷堂(開山堂・そうゆうどう)には、密室守厳の木像を安置。そのそばには鎌倉十井の一つ?瓶ノ井(つるべのい)″がある。 また山際に掘られた明月院やぐらは鎌倉時代最大のもの。上杉憲方の墓とされる宝筺印塔が内部にあるとされる。

 帰りは北鎌倉駅迄歩き、電車に乗ったが、本日の歩行数は16,894歩であった。

(2009.8.25.)