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『臓器移植』

土曜日, 10月 31st, 2009

魍魎亭主人

 脳死を『人の死』とすることを前提として、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法が2009年7月13日、参議院本会議で可決、成立した。厚生労働省は今後、15歳未満の脳死判定基準や臓器提供の意思表示方法などの検討に着手すると報告されている。本会議での採決は賛成138、反対82、棄権・欠席20。棄権欠席を消極的な反対とすれば、138対102という結果である。

 1年後改正法が施行されることになっているが、小児の意思表示等をどう取り扱うのか、難しい判断が求められる。

 所で新聞やTVの報道を見ていると、臓器移植賛成派の人達の意見を訊いていると、自らの身内の臓器移植で苦労しているだけに、単純によかったという反応を示されているように見えるが、それは当方のひがみなのだろうか。

 人の死を待たなければ手にすることのできない臓器を、当然提供されるものとして話しているような気がして、そのような印象を持ってしまうのかどうか。自分でもはっきり分析できていないが、臓器提供が当然だという考え方は、どんな場合であれ避けるべきではないか。家族の死に直面し、悲しみの中にあるとき、臓器提供が正義だと云わんばかりの対応をされたのではたまったものではない。しかし、正義は臓器期待者側にあるという雰囲気が醸し出されれば、そういう考え方がまかり通りかねない恐ろしさがある。

 あくまでも提供する側が、決断することが先決であり、臓器提供が当然の義務であるというような風潮が起こることを恐れるのである。

 最後まで十分に治療に手を尽くし、家族としての悲しみに配慮し、十分な対応をした後に臓器提供の依頼をするのが当然であって、そこで急いで貰っては困るのである。勿論、前もって当人が十分に理解をした上で臓器提供の意志を示し、近親者とも前もって十分な話し合いがされていて、という条件がある場合は別であるが、そうでない場合、飽くまで強制に渡る説得などはしないでおいて貰いたいのである。特に幼児等の場合、脳死が死であるとするにはまだ問題があるようである。特に家族が納得できないのではないかと思われるが、脳死に対する理解は、強制されることではない。

1)読売新聞,第47911号,2009.7.14.

(2009.7.15.)