『亀戸天神社』
金曜日, 8月 21st, 2009鬼城竜生
4月22日(水曜日)亀戸天神社の藤の花の写真を撮るのと御朱印を頂く目的で参拝した。
数年前に亀戸天神社には来たことがあるが、それは天神社の境内の中にある“江戸懐石若福”で極く内輪の呑み会があり、その時に御参りは済ましていたが、藤の花の時期は過ぎており、天神社の小冊子に掲載されている藤の花の写真を見て、花の時期は見事な庭になるのだろうというという思いは記憶に残っていた。その後、藤の花の時期に写真を撮りに来ようと思ったが、藤棚から下がっている藤の花というのはどういう写真の撮り方をすればいいのか、見当がつかないというか、似たり寄ったりになるのではないかと危惧する思いが先だって出かけてくることはなかった。
今回、横須賀しょうぶ園の藤の花はやゞ速過ぎということで、どうしようかと思っている時に新聞に亀戸天神社の藤の花が見頃というので、出かけることにした。JR蒲田駅から京浜東北線で秋葉原まで行き、そこで総武線に乗り換えて亀戸駅で下車。駅前に出てきたはいいが、前に来た時の道筋を全く忘れており、暫くウロウロさせられた。ただ、今回は江東区の発行した“下町ぶらりMAP 亀戸”を持参していたので、兎に角明治通りを真っ直ぐいき、蔵前橋通りとの十字路で横断し、左折する。前回は全く気が付かなかったが、左折して直ぐに香取大門商店街があり、その突き当たりに神社が見えた。あれっ!というので商店街に入ってみると突き当たりに香取神社なる神社が見えた。
社務所に人がいれば御朱印が戴けるのではないかと境内に足を踏み入れようとしたが、その前に狛犬の後ろに花が咲いており、何と八重桜であった。早速、背景に八重桜を入れて狛犬の写真を撮ったが、ぼてっとした花の感じが前面に出たのではないかと危惧したが、白見の多い花だったので、さほど暑苦しい感じはしていなかった。
香取神社の御由緒記によると、御祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)、相殿に武甕槌神(たけみかづちのかみ)・大己貴神(おおなむじのかみ)。
香取神社の御祭神経津主神は千早振る神代の昔畏くも皇祖の神勅を奉じ、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂の国の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる我国武将の祖?であるとされている。然も、御本宮が神武天皇の御代に東国鎮座されましたことは非常に意義のあることで、日本国の守護を固めたことになり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖?でもあるとされる。故に大和朝廷におかれても、殊に崇敬が厚く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽くされたという。
香取神社の創立は、天智天皇四年(665年)藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振りを納め、旅の安泰を祈り奉りましたのが創立の起因でありますと説明されている。亀戸は昔小さな島からなっており、初め亀島又は亀津島とも呼ばれ、島の形があたかも亀に似ている所からそのように名付けられた。江戸の名所図會にも香取大神宮、此の地も泰平塚に等しく海にして一つの離島なり、亀の浮かべるに似たりとて舊名を亀津島と唱えたり。
香取神社はその創立の経緯からか塚原朴伝をはじめとした剣術家の崇敬が篤かったとされている。その他、亀戸大根発祥之地とされ、大根の石碑が建てられているが、これは小ぶりな亀戸大根の栽培が、江戸末期の文久年間に始まり、神社周辺が栽培の中心地であったという由来に寄るようである。この碑は亀戸大根の栽培の発祥を記念し、平成11年割烹升本の店主により建立されたものだという。毎年3月10日前後に近い日曜日に、境内で亀戸大根福分け祭りで大根饅頭や亀戸大根が振舞われるという。
亀戸天神は天満大神(菅原道真公)、天菩日命(菅家の祖神)を奉祀する神社で、一般には広く『亀戸の天神さま』、『亀戸天満宮』と呼ばれ、親しまれている。古くは東宰府天満宮、本所宰府天満宮、あるいは亀戸天満宮と称されておりましたが、明治六年に東京府社なってより亀戸神社と号し、昭和十一年に亀戸天神社と正称したという。
亀戸天神社で一般に知られているのは『鷽替神事』で、その他では、『藤の花』がよく知られている。藤は境内一杯に藤棚が設えてあり、太鼓橋を背景に心字池に映る藤の花は絶世の景観であると神社紹介の小冊子に書かれていたが、時期によっては必ずしもそうは見えないというところが難しい。
今回も、新聞では見頃と書かれていたが、些か花に勢いが無いように見えたのは、こちらの思い過ごしなのかあるいは藤木に老いが忍び寄っているのか。
帰り駅の前にある亀戸駅前公園で、水を噴いている『羽亀』の写真を撮ったが、三段重ねの亀に羽が生えているという不思議なものであった。本日の総歩行数10,697歩。
(2009.6.4.)