『称名寺庭園』
木曜日, 7月 23rd, 2009鬼城竜生
何気なくTVを見ている時に、称名寺の反橋の渡り初めの紹介をしていた。数年前に行った時には確か古くなって危険だから渡らないで下さいという注意が書かれていた様な気がしたが、新しく掛け替えたということの様である。更に桜の花が咲き誇っている絵柄も見られたので、次の日(2009年4月5日)花の写真を撮りがてら見に出かけることにした。
京浜急行で金沢文庫まで行き、国道16号線に出て、横須賀方向に行き、直ぐ左側に入る。そのまま真っ直ぐ行くと左手に称名寺の赤門が見える。この赤門は惣門とも呼ばれ明和8年(1771年)に再建されたと紹介されている。四脚門、切妻造、本瓦葺(当初は茅葺)。惣門から仁王門の間は見事な桜並木で、桜見物の人々で立て込んでいた。仁王門から入ると正面に改修された反橋が見事に見え、その先に古色蒼然とした本堂が見える。
称名寺の庭園は、金沢文庫所蔵の古文書によると、苑池は金沢貞顕の時代の文保三年(1319年)から翌年の元応二年にかけて営まれた。作庭には性一法師が召され、貞顕も中島や橋の出来具合を案じて、度々現場を検分していた様である。また性一が青島石や90個もの石組みを指図し、白砂を大量に入用としたことや、苑池の完成に伴って水鳥が放し飼いにされていたことがうかがわれる。性一法師の経歴は不明であるが、当時名だたる石立僧(庭造り専門の僧)として重用されたのであろう。
この庭園は金堂の前池として、その荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分する様に中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達する様になっている。このような配置は、平安時代中期以降、盛んになった浄土式庭園の系列にあるもので、現存する同一形式の庭園として岩手県平泉町の毛越寺(もうつうじ)(1150年頃)、福島県いわき市の白水阿弥陀堂(1160年)、奈良市円成寺(1077年白河天皇造営)に範を取ったとされるが、源頼元が建立した鎌倉市永福寺の庭園はその影響を受け、更に称名寺庭園へと発展したものと考えられている。南の大門から反橋・中島・平橋を経て金堂へという地割を持つ形式の浄土庭園としては時代的に最後の遺例となることからも、称名寺庭園の庭園史上における価値は頗る高い[史跡称名寺境内(鎌倉を守った東の要衡)パンフレット]。
金沢北条氏の菩提寺
横浜市金沢区金沢町にある寺。金沢山称名寺と称する。真言律宗、別格本山。西大寺末。本尊阿弥陀菩薩(重要文化財)。金沢(かねざわ)北条氏一門の菩提寺で、草創の時期を明らかにしないが、金沢氏の祖、北条実時が六浦荘の金沢居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されている。正嘉二年(1258年)実時の堂廊において、伝法灌頂の儀式が執り行われた。これは多分、現在実時の持仏と伝えられる阿弥陀三尊を安置した持仏堂で行われたのであろう。この持仏堂は文応元年(1260年)実時亡母七回忌頃までには念仏の寺として独立したらしく、弘長二年(1262年)西大寺叡尊が鎌倉に下向した際の『関東還記』には、称名寺と号し、別当を置く不断念仏の寺であると記している。
実時は叡尊に深く帰依し、文永四年(1267年)下野薬師寺から妙性房審海を開山として迎え、寺を真言律宗に改めた。建治二年(1276年)弥勒菩薩立像造立、弘安七年(1287年)『称名寺規式』が制定され、此処に称名寺の基礎が定まったと解説されているが、この文書を読んだだけでは、兎に角古いのと立派なのは解るが、まああまりよく解らない。
ところで、称名寺に行く途中に『菊桜』珍しい花ですという名札が下がっている木があったが、メモを取るのを忘れたので、花の名前はうろ覚えである。
当日は桜も満開で、多くの人で立て込んでいたが、御同様に信心から足を運んだわけでなく、ただただ花見る人の集まりということであろうが、桜の美しさに恍惚とし、古い境内の佇まいに心落ち着き眼を見張れば、また新しい世界観が見えるかもしれない。不信心な人々の花見を何とかと思って考えたが、出来上がりはたいしたことがなかった。
参道の桜並木や称名寺
門前の桜賑わう称名寺
門前の桜の道や称名寺
池の端に桜枝差す称名寺
称名寺桜の道をそぞろ行く
何れも信心とはほど遠い句ばかりである。総歩行数7,577歩で、残念ながら1万歩には到達しなかった。
(2009.5.12.)