Archive for 7月 23rd, 2009

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『洗足池・御嶽神社・池谷本問寺』

木曜日, 7月 23rd, 2009

鬼城竜生

 2009年(平成21年)4月3日(金曜日)近所の桜を見ている限り開花の後に花冷えが訪れたせいか、間の抜けた色に見えるというか、何か脱色した様な妙な白さの花になっているのが見えた。今年は不作かと思っても見たが、昨年は無精を決め込んで桜の写真を撮っていないので、今年は是非とも撮りに行きたいということで、洗足池、池谷本問寺に行くことにした。

 池谷本問寺は、2年前に桜の花を撮りに行っているので、花が咲いていれば五重塔と絡めて、良い写真が撮れることは解っていたが、洗足池は人が写した写真を見たことがあるだけで、実際に桜の季節には行ったことがなかった。JRの蒲田駅から東急池上線の乗り換え、洗足駅で下車。改札口から出ると、目の前に中原街道と洗足池が広がっている。以前、中原街道側から池全体を見渡したことはあるが、中に入ったことはなかった。ただ、桜の写真を撮るということになると、向かって左側の道に入って池を俯瞰して反対側を狙うという、つまり桜の花は右側の真ん中当たりに集中して咲いているという眺望だった。但し、対岸には無闇に屋台の出店があり、出店を取り込んで面白い写真というのもあるのかもしれないが、そういう俗っぽい写真はあまり撮りたくないというよりは、どうせつまらない写真になってしまうという思いもあって、洗足池の写真は半分撮る気がなくなっていた。

 まあ折角来たのだからということで、左岸を回っていくと、神社が見えてきてあれこんなところに神社があったのかということで、境内まで行くことにした。境内に入ると、庭の鉢植えに水をやっている人がおり、「すいません、此処は御朱印は戴けるんですか?」と訪ねたところ、「どうぞこちらに………」ということで社務所に案内されたが、どうやら偶然宮司さんに声をかけた様である。その時、持っていた御朱印帳は“博多総鎮守櫛田神社”のもので、しかも、開いた頁は丁度“筑前箱崎八幡宮”の御朱印を頂いた頁だったので、「九州でも八幡社にお詣り頂いたのですね」ということで、神社の御由緒を頂戴すると共に、幾つかの話題の提供を受けた。

 御由緒によると御祭神は品陀和気之命(応神天皇)で、千束八幡神社と称し、平安前期の貞観二年(860年)豊前国(大分県)宇佐八幡を勧請(分霊)し、往事の千束郷の総鎮守として、現在の地に創建され、今日に至っている。遠く千百余年の昔より、この地の氏神として尊崇され、普く神徳を授けてきている。承平五年(935年)、平将門の乱が起こり、朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣され、乱の後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として手厚く祀り、この忠方の館が池の上手に当たっていたので、池上氏を呼称し、この九代目の池上康光は身延から日蓮を招請した。また八幡太郎義家奥羽征伐の砌、この池にて禊ぎを修し、社前に額ずき戦勝祈願をして出陣したと云われている。

 源頼朝もまた鎌倉に上る途中、この池を通過した時八幡宮であることを知り、大いに喜び此処に征平の旗幟を立てたので、近郊より将兵が参集し、鎌倉に入ることができたとされている。このことから旗揚げ八幡とも云われているとされる。また名馬池月を得たのも此処に宿営の折との伝承があるとされる。

 尚、境内には武蔵の国随一とといわれた大松がありましたが、大正十三年惜しくも枯衰し、今はその雄姿を見ることかなわずと説明されている。古歌に「日が暮れて足もと暗き帰るさに空に映れる千束の松」と詠まれており老松の偉容が想像されますとする記載が見られる。このように当千束八幡神社は、城南屈指の古社にして股名社でありますとしている。

御嶽神社の御祭神は、国常立命(くにとこたちのみこと)、国狭槌命、豊雲野尊を祭る。天文四年(1535年)頃から御嶽神社として創祀されたと伝えられているという。文政年間(1818-1830年)には、木曽御嶽山の修験者一山(いっさん)行者によって、この神社が木曽御嶽大神の示現の社であることが明らかにされた。一山は寝食を忘れ神徳の宣揚に勤めたために、村民をはじめ関東一円に崇敬者が激増し、天保二年(1831年)に現在の社殿を建立したと報告されている。

 境内が工事中のため、落ち着いて観照できなかったが、狛犬の他に狼と云われる石像が二体あるのが他と異なっているが、工事が終了すれば再度訪れる価値はありそうである。

 池上本問寺はいわずとしれた日蓮宗大本山、日蓮聖人が御入滅された霊跡とされるのが池上本門寺で、日蓮聖人がお亡くなりになられた10月13日を中心に、全国各地の日蓮宗寺院では、お会式(おえしき)が営まれるが、本問寺のお会式がもっとも盛大に行われるとのことである。

 境内には桜の木に囲まれた日蓮の大きな像と、五重塔があり、桜の時期に写真を撮りに行くのは絶好のポイントを提供してくれる。まあ、日蓮の立像は、恐れ多くて写真にならないが、しかし、見事なものであることに変わりはない。

 ところで東急池上線の確認をするため、Internet検索をしたところ、“池上線(西島三重子)という歌があることが検索できたが、これには素直に驚いた。歌になる様な電車じゃないだろうというのが、池上線に乗った感想だったからである。本日の歩行総数13,546歩。

(2009.5.24.)

『称名寺庭園』

木曜日, 7月 23rd, 2009

鬼城竜生

 何気なくTVを見ている時に、称名寺の反橋の渡り初めの紹介をしていた。数年前に行った時には確か古くなって危険だから渡らないで下さいという注意が書かれていた様な気がしたが、新しく掛け替えたということの様である。更に桜の花が咲き誇っている絵柄も見られたので、次の日(2009年4月5日)花の写真を撮りがてら見に出かけることにした。

 京浜急行で金沢文庫まで行き、国道16号線に出て、横須賀方向に行き、直ぐ左側に入る。そのまま真っ直ぐ行くと左手に称名寺の赤門が見える。この赤門は惣門とも呼ばれ明和8年(1771年)に再建されたと紹介されている。四脚門、切妻造、本瓦葺(当初は茅葺)。惣門から仁王門の間は見事な桜並木で、桜見物の人々で立て込んでいた。仁王門から入ると正面に改修された反橋が見事に見え、その先に古色蒼然とした本堂が見える。

 称名寺の庭園は、金沢文庫所蔵の古文書によると、苑池は金沢貞顕の時代の文保三年(1319年)から翌年の元応二年にかけて営まれた。作庭には性一法師が召され、貞顕も中島や橋の出来具合を案じて、度々現場を検分していた様である。また性一が青島石や90個もの石組みを指図し、白砂を大量に入用としたことや、苑池の完成に伴って水鳥が放し飼いにされていたことがうかがわれる。性一法師の経歴は不明であるが、当時名だたる石立僧(庭造り専門の僧)として重用されたのであろう。

 この庭園は金堂の前池として、その荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分する様に中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達する様になっている。このような配置は、平安時代中期以降、盛んになった浄土式庭園の系列にあるもので、現存する同一形式の庭園として岩手県平泉町の毛越寺(もうつうじ)(1150年頃)、福島県いわき市の白水阿弥陀堂(1160年)、奈良市円成寺(1077年白河天皇造営)に範を取ったとされるが、源頼元が建立した鎌倉市永福寺の庭園はその影響を受け、更に称名寺庭園へと発展したものと考えられている。南の大門から反橋・中島・平橋を経て金堂へという地割を持つ形式の浄土庭園としては時代的に最後の遺例となることからも、称名寺庭園の庭園史上における価値は頗る高い[史跡称名寺境内(鎌倉を守った東の要衡)パンフレット]。

 金沢北条氏の菩提寺

 横浜市金沢区金沢町にある寺。金沢山称名寺と称する。真言律宗、別格本山。西大寺末。本尊阿弥陀菩薩(重要文化財)。金沢(かねざわ)北条氏一門の菩提寺で、草創の時期を明らかにしないが、金沢氏の祖、北条実時が六浦荘の金沢居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されている。正嘉二年(1258年)実時の堂廊において、伝法灌頂の儀式が執り行われた。これは多分、現在実時の持仏と伝えられる阿弥陀三尊を安置した持仏堂で行われたのであろう。この持仏堂は文応元年(1260年)実時亡母七回忌頃までには念仏の寺として独立したらしく、弘長二年(1262年)西大寺叡尊が鎌倉に下向した際の『関東還記』には、称名寺と号し、別当を置く不断念仏の寺であると記している。

 実時は叡尊に深く帰依し、文永四年(1267年)下野薬師寺から妙性房審海を開山として迎え、寺を真言律宗に改めた。建治二年(1276年)弥勒菩薩立像造立、弘安七年(1287年)『称名寺規式』が制定され、此処に称名寺の基礎が定まったと解説されているが、この文書を読んだだけでは、兎に角古いのと立派なのは解るが、まああまりよく解らない。

 ところで、称名寺に行く途中に『菊桜』珍しい花ですという名札が下がっている木があったが、メモを取るのを忘れたので、花の名前はうろ覚えである。

 当日は桜も満開で、多くの人で立て込んでいたが、御同様に信心から足を運んだわけでなく、ただただ花見る人の集まりということであろうが、桜の美しさに恍惚とし、古い境内の佇まいに心落ち着き眼を見張れば、また新しい世界観が見えるかもしれない。不信心な人々の花見を何とかと思って考えたが、出来上がりはたいしたことがなかった。

参道の桜並木や称名寺

門前の桜賑わう称名寺

門前の桜の道や称名寺

池の端に桜枝差す称名寺

称名寺桜の道をそぞろ行く

 何れも信心とはほど遠い句ばかりである。総歩行数7,577歩で、残念ながら1万歩には到達しなかった。

(2009.5.12.)