芝公園
金曜日, 6月 26th, 2009鬼城竜生
蝋梅を前景として東京タワーを写した写真が新聞に掲載されていた。人が発見した撮影ポイントを狙うなどと言うのは、本来避けるべきであろうが、どうせ素人が撮る写真、新聞に掲載された蝋梅と東京タワーを真似て写真でも撮ろうかということで、芝公園に出かけた。
大江戸線大門駅で下車し、A6出口から出たら何と眼の前に芝大門更科『布屋』の看板があった。最近体重を落とそうとして、できるだけ昼飯は蕎麦を食べることにしており、1時過ぎの時間帯ということで、混ではいないだろうということで入ることにした。鴨蒸籠を注文して何気なく店内を見渡すと、店の案内を印刷した紙が眼に付いた。
創業寛政三年(1792年)信州の反物商布屋萬吉が蕎麦屋に転向し、創業の運びとなりました。江戸四大食(蕎麦・寿司・鰻・天麩羅)の一つとしてお引き立て頂き、今日まで二百余年の商いをさせて頂いております。江戸の昔より口伝にて受け継がれる「家伝変わりそば」の技術を加え、常時五種類のお蕎麦を四季の香りでお楽しみ頂けます。
店にとって最も大切なのは『蕎麦打ち』と『汁作り』でありますが、製麺技術の木鉢では、老舗の技術が接近しすぎて特徴が出し難く、一子相伝の暖簾の伝統として特徴を作り易く継承させ易かった『蕎麦汁』により神経を使ったものと思われます。
普通、蘊蓄を述べる食い物屋は余り美味くないのが通り相場だが、この店はそれなりの蕎麦を食わせてくれた。
ところで芝公園であるが、何処から何処までが公園なのか初めは解らなかった。芝公園は、明治6年に太政官布達によって指定された、日本で最も古い公園の一つで、敷地内には東京都指定史跡である前方後円墳(丸山古墳)があり、全長110m、後円部径約64m、くびれ部分の幅22mという、都内では最大級の規模となっているというが、何処から何処までが古墳なのか解らなかった。
その古墳上から麓にかけて染井吉野、山桜、里桜等の桜が約60本植えられている。芝公園自体が標高16mの台地上にあるうえ、古墳の土が盛られているため、頂上からの眺めはまた格別だ。もう一箇所、弁天池周辺にも桜の一群があり、公園内全体の桜の本数は、およそ200本であるとされている。
『銀世界』:元新宿角筈にあって、江戸時代から銀世界と称せられていた梅林を明治41-42年ごろ芝公園に移植したその標示碑であるという。元来17号地グランドの西にあったが、道路拡張に伴い、昭和41年に現在地に移されたとされる。
『紅葉谷』:昭和59年に復活した人工の渓谷。大小の自然石を組み合わせた岩場と周囲の樹林とを取り合わせ、高さ10mの岩場から落下する滝がみられる。谷の名称は一帯にはモミジが植えられており、秋にはそれなりの風情があるところである。
『伊能忠敬測地遺功表』:伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪の大木戸であったという関係で、東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てたとされる。明治22年に立てられたものは、高さ8.58mの青銅製の角柱型のものだったとされるが、戦災で失われたため、昭和40年に現在のものが再建されたという。
『大野伴睦句碑』:昭和38年6月調理師法施行5周年にあたって、長年調理師会の名誉会長として尽力した政治家大野伴睦氏の労に謝するため贈呈されたものといわれている。
『ペルリ提督の像』:昭和28年7月20日、日本開国百年記念祭挙行のとき、東京都民からニューポート市に、石灯籠1基を贈った答礼として受け取った像であるとされる。
正直に申し上げれば、蝋梅は殆ど茶番劇であった。あるにはあったが、東京タワーを背景として新聞に掲載するほどのものではなかった。 ただし、“銀世界”と称する梅林は面白い花の咲き方をしていた。枝がみんな上を向いており、さほど広い梅林ではなかったが、花の見え方は迫力があった。
『丸山随身稲荷大明神』なる御稲荷さんが祀られてあったが、増上寺の裏鬼門を守るために祀られているということで、その意味では元は此処も増上寺の敷地の中だったということができるんだろうか。
直ぐ近くに『芝東照宮』なる神社があり徳川家康を祀ったものとされている。本来は増上寺にあったものが、明治初期の神仏分離令により、この地に移設されたものという。境内に銀杏の木があるが、この銀杏の古木は、天然記念物に指定されている。
2009年2月12日、歩行数8,258歩。1万歩には到達せず。
(2009.4.28.)