『赤目不動から吉祥寺へ』
木曜日, 6月 25th, 2009鬼城竜生
2009年3月15日(日曜日)、第18回国民の医薬シンポジウム実行委員会が主催する『薬害シンポジウム』ということで、東洋大学の白山キャンパスに出かけた。『待ったなし! 今こそ薬害根絶を!-医薬品行政と現場の大改革へ-』というのが主題で、二つのシンポジウムが計画されていた。
第1部は『多国籍業の経済戦略批判』[儀我壮一郎(国民医療研究所顧問)]・『製薬企業と医薬品行政』[荒木茂仁(全国薬業労働者連絡会議事務局長)]・『医薬品行政改革への提言[水口満寿美(薬害オンブズパースン会議事務局長)]の3氏がそれぞれの立場で発言した。こういうシンポジウムに参加して何時も思うのは、『薬』を介して製薬大企業の開発意欲を一方的に批判するが、新しい『薬』の開発によって恩恵を受けるのは人類であって、『薬』の開発は悪ではないはずである。薬害の発生は『薬』を使用する側の問題であって、『薬』そのものには何の責任もないはずである。
甚だ申し訳なかったが、天気も良く、直ぐ近くの駒込に“目赤不動”があり更にその先には“吉祥寺”もある。昼飯を食いに出るついでにそのまま街歩きに出かけることにした。
最初に眼に付いたのは『史跡文化財駒込土物店跡』なる石柱である。土物店というのは、この辺り一帯は駒込なすの産地であり、その他、泥つきの野菜がそのまま持ち 込まれたので「土物店」の名前がついたと説明されている。神田、千佳と並んで江戸の青果三大市場のひとつであったという。起源は元和年間で、農民が江戸へ運ぶ野菜を、この地の住人が買い求めたのがきっかけで、市が開かれるようになったという。昭和12年(1937)に豊島区へ転出し、豊島青果市場となったとされる。天栄寺の境内に「駒込のやっちゃ場」と呼ばれた江戸期の青果市場跡を記念する石碑が建てられている。
江戸五色不動のうち東急田園都市線三軒茶屋駅の近くにある目青不動は、既に拝観(よく見えなかったが)しており、本駒込にある“目赤不動”を拝観すれば、五色不動のうち二色不動を回ったことになるわけである。目青不動に比べると、目赤不動の方は動きが見られた。大聖山東朝院南谷寺で頂戴した目赤不動尊縁起によれば、『当山に安置し奉る江戸五色不動の一つ目赤不動尊の由来を申し上げますと、元和年間(1615年頃)比叡山南谷に万行律師(南谷寺初代住職)という持戒知徳の名僧がおり常に不動尊を尊信し昼夜不退に不動真言を称えており在る夜聖童夢枕に来たって告げ給う、万行多年不動尊を信奉する事深切なり、伊賀の国の赤目山に来たれ不動明王の霊験あらんと告げ終わり金光を放って飛び去る夢を見て夢さめたり。信心を肝に銘じ、お告げに従い速やかに比叡山を発ち、伊賀の国赤目山に登り絶頂の盤石に端座すること三日三夜、口に不動真言を称え手に秘印結び心寂然として明王の来迎を待ち奉る。不思議なるか虚空に御声もろとも投げ入れ給う物あり。手を開き見れば是すなわち黄金一寸二分の不動明王の尊像にて、有り難くも尊くて欽喜の泪にむせび礼拝恭敬し法楽して後赤目山を下り比叡山南谷の庵室に安置す。
その後関東に出てきて下駒込(今の動坂)にお堂を建て、万民化益を祈念していたというが寛永五年将軍家光が鷹狩りの途中、立ち寄った時に由来を言上したところ府内五不動の因縁を以て赤目を目赤と称える様にとの上意があり、淺嘉町藤堂家屋敷跡を拝領し寺院の建立がされたという。
目青不動、目赤不動の他に目黒不動、目白不動、目黄不動があり、目黄不動尊は二カ所に勧請されていると縁起には書かれている。
赤目不動を出て本郷通りを左に行くと吉祥寺前の信号があり、それを渡ると吉祥寺の門の前に出る。
吉祥寺は本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院で、山号は諏訪山である。群馬県の永源寺の末寺、神奈川県の最乗寺の孫末寺にあたる。長禄二年(1458)太田持資(道灌)の開基で青巌周陽によって開山。道灌は江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から吉祥と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立した。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによるという。天正十九年(1591)第五世用山元照の代に徳川家康より寺領五十石を寄せられ、同時に神田駿河台に移り、明暦の大火(1657)後現在地に移転。駒澤大学の前身である栴檀林(せんだんりん・私学)は五世用山の創立で、宗門の禅学を修得する道場であり、江戸中期から洞門に数千の人材を送った。江戸四ヵ寺の一として堂宇は壮麗を極めたが四十二世仏海宗国の代から絶海勝俊に至り震災と戦災にあい焼失。昭和三十九年大本堂、庫裏、庭園等を落成した。榎本武揚、川上眉山、二宮尊徳の墓がある。
武蔵野の吉祥寺は、明暦の大火の折りに門前に居住していた人達が移転し、村を作り村の名前として吉祥寺と付けた事によるとされている。
文京九中入口の信号を右に入ると天祖神社がみえる。天祖神社の創建は古く、文治五年(1189)源頼朝が奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられている。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648-1652)堀丹後守年直が再興したとされている。その後第二次世界大戦の時に空襲により残らず消失したが、氏子各町の熱意により昭和二十九年に新築し現在に至っているという説明がされている。
更に本郷通りを進み富士神社前の信号で右に入ると富士神社が見られる。駒込富士神社は、本郷村の名主が天正元年(1573)現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことにはじまるという。寛永五年(1628)加賀前田家が、上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移したという。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。6月末から7月はじめの山開きには夜店が出てにぎわいを見せるとされるているが、通常は社務所は無人の様である。
赤目不動・吉祥寺・天祖神社は御朱印を戴けたが、そんな訳で富士神社は戴くことができなかった。
本郷通りを真っ直ぐ行くとJRの駒込駅に出る。そこまで歩いて家に帰ったが、総歩行数13,074歩となった。しかし、江戸時代の人は電車もバスも無い中をよく歩いたと感心するが、最近躰が鈍っているせいか、歩行数が一万歩を超え始めると、足が縺れる様な気がするのは単なる気分の問題ではない様である。そんな気分がした時に歩数計をみると、大体が一万歩を超えた当たりである。
(2009.5.6.)