Archive for 5月 27th, 2009

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目青不動から豪徳寺

水曜日, 5月 27th, 2009

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 2008年12月11日(木曜日)渋谷から田園都市線に乗り換えて三軒茶屋でおり、東急世田谷線の三軒茶屋駅の直ぐ裏手に目青不動がある。寺院の正式な名称は“教学院”というようであるが、今回は目青不動ということにしておく。

 何年か前、先輩の賀状に目赤不動、目青不動、目白不動等を巡りましたの文言があり、目の色の違う御不動さんがそんなにあるのかということで気になっていたということで、今回、取り敢えず目青不動を経由して豪徳寺の紅葉を狙って出かけたということである。

 Wikipediaによると東京に五色不動があり、その縁起については『五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、徳川家光が天海僧正の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来する等の伝説が存在する。』

 『一方で五色不動を歴史的に研究したいくつかの報告によると、実際に『五色不動』という名称が登場するのは明治末または大正始めであり、江戸時代の史実とは考えにくいとしているが、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られるという。また名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持つとされる。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として『三不動』の名で知られる』等の解説がされている。

 目黒不動(瀧泉寺:目黒区下目黒)・目白不動(金乗院:豊島区高田)・目赤不動(南谷寺:文京区本駒込)・目青不動(教学院:世田谷区太子堂)・目黄不動(永久寺:台東区三ノ輪)・目黄不動(最勝寺:江戸川区平井)

 ところで残念ながら教学院では目青不動が開帳されているわけではなく、存在感は提灯の文字で示されているだけであった。江戸時代から続いているお寺というにしては、語るべき特徴は見られなかった。

 次に東急世田谷線宮の坂で下車し、豪徳寺まで歩いた。豪徳寺の紅葉は若干時期が過ぎたのではないかと思われたが、そこそこ写真に撮ることは出来た。

 豪徳寺は曹洞宗のお寺で、山号は大谿山ということである。1480年(文明12)吉良左京太夫忠政が、伯母の弘徳院の菩提のために馬堂昌誉(まどうしょうよ)を開山として建立し、初めは法号にちなんで弘徳寺と称し、臨済(りんざい)宗に属していたという。1584年(天正12)門庵宗関(もんあんそうかん)が曹洞宗に改め、中興開山となった。井伊直孝が当地に住んでからはその菩提寺となり、1659年(万治2)直孝の法名によって豪徳寺と改称。寺内に直孝の墓碑があるという。

 しかし、良く解らないが、臨済宗に属していた寺が曹洞宗に改宗?するなんてことが簡単にできるのであろうか。仏教の根っこは全て同じと考えれば、特に問題にする必要はないのかもしれないが、豪徳寺だけではなく、ほかの寺でも来歴中に改宗を書いているものがあったような記憶がある。

 この寺にまつわる伝承として、彦根藩二代目藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに門前を通りかかると、手招きをする猫がいる。不審に思って寺に寄り、和尚の話を聞きながら渋茶など飲んでいると、突然大変な雷雨になった。直孝はこの幸運を喜び、福を招く猫のいる寺としてこの寺を大事にし、井伊家の菩提寺としたのが豪徳寺の始まりだとされる。当時は弘徳庵という小さな庵だったが、直孝の戒名を取って豪徳寺となり今に至っているとの解説が見られる。

2006年5月、豪徳寺に新しく三重塔が建立され落慶法要が営まれたとある。素人写真としては、この三重の塔と紅葉の組み合わせは、甚だ撮りやすいということで、紅葉越しに三重の塔を狙ったが、そう都合良く紅葉があるわけはない。じっくり見れば、色々見所があるようだが、“招き猫”を2体購入して帰途についた。帰りは小田急小田原線の豪徳寺駅まで歩いた。歩行数12,174歩。

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? (2009.2.9.)

『小石川後楽園』

水曜日, 5月 27th, 2009

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 梅の花の写真を撮りたいということで、“小石川後楽園”に行くことにした。都営地下鉄大江戸線「飯田橋駅」のC3出口を出て徒歩約2分という近さであるが、電車の路線としては大江戸線よりは、他の路線の方が早く到着したのではないかというのがカミサンの意見。

さて、特別名勝・特別史跡東京都立小石川後楽園の入場券によると、この庭園は、寛永年間1624-1643年)水戸徳川氏の初祖徳川頼房によって造られ二代光圀によって完成した我国における代表的な回遊式築山泉水庭園です。頼房は江戸の中屋敷の庭として造園したが、後に上屋敷になったとされている。光圀は造成に当たり、明の遺臣朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れ、園名もまた舜水の撰名によるなど中国趣味豊かな庭園です。

後楽とは中国の范仲淹の「先憂後楽」の後によったもので、「民衆に先立って天下のことを憂い民衆が皆安楽な日を送るようになって後に楽しむ」ということで、光圀の政治的信条によったものといわれています。

庭園は数少ない江戸初期の大名庭であり、文化財保護法により特別史跡及び特別名勝に指定されております(昭和27年3月29日)とうの説明が書かれている。

庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」で、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、本庭園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引入れ築庭されました。また光圀の儒学思想の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮とここの二つだけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条二坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ九カ所だけですの紹介がされている。

小石川後楽園で見られる主な植物は蝋梅、山茱萸、梅、枝垂れ桜、染井吉野、里桜(ウコン)、躑躅、皐月、藤、額紫陽花、ノリ空木、燕子花、花菖蒲、シャガ、石蕗、彼岸花、睡蓮、蓮、松、茅、タブノキ、椎の木、藪椿、欅、椋の木、伊呂波紅葉。

蝋梅があるとは思っていなかったので、時期的には遅かったが、何本かの蝋梅が見られたのには驚いた。しかし、余り大きな木は無かったが、蝋梅という木は本来余り大きくならないのかとも思うが、芝公園で見た木は、もっと大きかったので、此処の蝋梅はまだ植えてから余り日が経っていないのかもしれない。梅林は光圀の号が「梅里」と称していたというほど梅を好んだということから、そこそこの本数が植えられており、紅梅と白梅が混じり合って花を付けていた。ただ、此処の梅は、近くに寄って見るよりは、少し離れて全体としての雰囲気を見た方がいいのではないかと思われた。特に写真を写すには、近くよりは遠くから写す方が、もやっとした感じが出て良いような気がした。

入口から入って直ぐのところに枝垂れ桜が見られるが、樹齢推定約60年と紹介されていた。六義園の枝垂れ桜程には名前が売れていないとすれば、写真を撮るのは楽かもしれない。昨年の桜の時期に、枝垂れ桜の写真を写そうと思って出かけたが、六義園の枝垂れ桜は名前が売れすぎていて、桜を見るのか人を見るのか解らない混雑振りで、落ち着いて写真を撮るのは些か難しいような気がした。それ以前に枝垂れ桜の時期には、入るまでに時間が掛かり、諦めて帰ってきた記憶がある。それ以後、写真写りの良い枝垂れ桜を狙っているが、写メも含めて人が多すぎる木は、良いポジションに入れず、写真にならない。

今年の桜は、池上本問寺、洗足池、金沢八景の称名寺を巡り歩いていて小石川後楽園までは辿り着かなかったので、枝垂れ桜は見ていないが、樹齢60年の桜がどんなものが見に来るべきだったかもしれない。

2009年2月14日の歩行数7,946歩。

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? (2009.4.29.)

『サリドマイド』

水曜日, 5月 27th, 2009

  医薬品情報21
  古泉秀夫

2008年10月4日(土)の読売新聞(第47629号)の朝刊一面に三段抜きで『サリドマイド月内承認』『血液がん治療用46年振り販売へ』の活字が踊っていた。

サリドマイドの使用によって、多くのphocomelia(アザラシ肢症)児が発生し、1962年国内販売が中止された。市販のサリドマイドは、等量のR体とS体が混在したラセミ体として合成される。開発当時の技術では、R体とS体の分離は難しく、ラセミ体のまま発売された。後にR体は無害で、S体は非常に高い催奇性をもっており、高頻度で胎児に異常をひき起こすこと、更に流産防止作用もある等の報告がされた。胎児異常の主な症状は、四肢の発育不全を惹起し、手足が極端に未発達な状態で出産、発育するphocomeliaが主な症状であるが、知覚や意識、知能に対する影響はほとんど見られないとされている。

尚、現在の技術では、R体・S体の分離(光学分割)及び一方のみを選択的に合成(不斉合成)することも可能であるとされる。しかし、R体のみを投与しても、比較的速やかに(半減期566分)生体内でラセミ化するの報告がされている。

国内での発売当初、サリドマイドは『安全な』睡眠薬であるといわれていた。

1958年1月20日当時の大日本製薬が、独自の製法を開発し「イソミン」の商品名で販売を開始した。1959年8月22日、更に大日本製薬は胃腸薬「プロバンM」にサリドマイドを配合、この薬は妊婦のつわり防止に使用された。このころから他国では奇形児の発生が報告されるようになり、製薬会社は西ドイツに研究員を派遣するなどして情報収集を始めた。しかし、諸外国が製品を回収した後も国内では販売が続けられ、この約半年の遅れの間に被害児の半分が出生したと推定されている。大日本製薬と当時の厚生省は、西ドイツでの警告や回収措置を無視してこの危険な薬を漫然と売り続けた。米国のFDAが認可せず、治験段階の約10人の被害者に留めたこととは対照的な結果となった

1965年にイスラエルの医師が、ハンセン病患者の鎮痛剤としてサリドマイドを処方したところ、ハンセン病特有の皮膚症状の改善がみられた。更に1989年、がん患者の体力消耗や食欲不振の原因である腫瘍壊死因子α(TNF-α)の阻害作用が発見された。また、サリドマイドには「血管新生阻害作用」があることが解明された。この「血管新生阻害作用」は、胎児の手足の毛細血管の成長を妨げ、奇形発生の原因となった作用ではないかとする意見も見られる。一方、癌組織への毛細血管の成長を阻害する結果、多発性骨髄腫などの癌への治療効果があることがわかってきた。特に鎮痛効果が期待されているようである。

その他、報告されている効果として、『エイズウイルスの増殖抑制・糖尿病性網膜症と黄斑変性症の予防・各種の癌に対する抗癌作用』等が挙げられている。

今回、サリドマイドの製造が承認されるに際し、その管理は麻薬以上の厳しいものになったようである。薬害の原因となった薬である。また同じようなことがあったのでは話にならない。更に管理の厳しさは、自己輸入によって、勝手に使用していたという、いい加減さが医療界に存在することによるのではないか。個人輸入で使用するのだからあくまで自己責任でという意見もあるかもしれないが、薬物の管理の徹底は何処までされていたのか。輸入した薬物による第三者の汚染は絶対にないといえるだけの管理が出来ていたのであろうか。もし、個人輸入した薬物の管理が杜撰で、一般人の手にわたった事例があったとすれば、その責任は重い。

今後は、専門家が扱う事になる。専門家が扱う以上、絶対に事故を起こさない管理の徹底が必要である。

                                                                    (2009.2.6.)