鬼城竜生
『羽田七福いなり』なるものがあるという。約2時間で回れるというので、1月3日出かけることにした。普段は殆ど無人のようであるが、1日から5日迄は、御朱印が貰えるということだったので、それも楽しみにしていた。
京急蒲田駅で京浜急行羽田線の電車に乗り、糀谷駅で降りる。下り方面の踏切を渡って、糀谷商店街を真っ直ぐ行き、荻中商店街をみずほ銀行側に曲がり、約10分の行程で萩中神社に行き着く。その裏手に東官守稲荷神社(身体安全)があり、本日の第一号である。
『東官守稲荷神社』は、昔は萩中町7番地(旧番地)辺りにあり、敷地も広く東に向き、海に向かって建てられていたという。当時この地に住む村人の殆どは半農半漁の生活をしていたので、海での仕事の安全を祈る守護神として、村人達の信仰を集めていた。大 正6年の風水害により社は被害を受けたが、萩中神社再建の際、萩中神社の境内に移された。しかし、また昭和20年4月、戦災の為焼失してしまったが、町民の努力により再建されたとされている。
萩中神社の前の道を真っ直ぐ行き、次の十字路を右に、直ぐの脇道に入ると『妙法稲荷神社』が見えてくる。神社を出て直ぐ左に曲がり運送会社の前を過ぎると『重幸稲荷神社』(開運長寿)の旗飾りが見える。
『妙法稲荷神社』(招福厄除)は、享和元年9月(1801年)大洪水の被害から立直る為、京都伏見大社の分霊を賜り、大松の下に社殿を建立し、鎮座されたものと伝へられている。この松の根元には白蛇が住み、神の使いと云われた事から、蛇稲荷とも呼ばれ信仰を集めていた。大正12年の関東大震災の折、大松も社殿も焼失したが、当地の有志により松の切株の上に八角堂が建立され、妙法稲荷と呼ばれ信仰を集めていた。昭和20年の戦災によって八角堂は焼失したが、昭和31年崇敬者並びに地元有志により現在の社殿が建立されたとされている。
また『重幸稲荷神社』(開運長寿)については、昔、この辺り一帯は大野上田と呼ばれていた。度々の洪水に悩まされた村人達は、多摩川のほとり旧六郷土堤の際に田畑の守護と五穀豊穣を祈って社を建立した。社前の道路は旧六郷土堤であり、現在の社の高さが旧堤防の高さであった。境内には樹令400年、幹まわり3.5メートルの楠の大木があったが、昭和20年4月の大空襲で焼失してしまった。社前の道路が一部膨らんでいる事が、大木のあったことと歴史の古さを物語っているとする解説がされている。
『重幸稲荷神社』をでて、左に道を取り都南小学校を過ぎると『高山稲荷神社』に到着する。『高山稲荷神社』(学業成就)については、この辺りは中村と呼ばれ、社殿は名主橋爪家(伊勢屋=本羽田三丁目辺り)の前にあったが、昭和4年の六郷土堤改修工事の際、現在地に移転された。移転前の社が飛騨高山より来た大工によって建築された事から、高山稲荷と呼ばれる様になったと云われている。戦前の初午祭には、芝居も催され大層の賑わいをみせた。この辺りの親達は初午の日に社前に小屋を作り、子供をお籠りさせてから寺小屋に入門させたと云う解説が見られるが、現在では、それほどまでに地域に密着していた神社とは思えない。
都立つばさ高の前を通り過ぎると産業道路の太子橋の近くにでる。更に高速第1号横羽線を過ぎて左手に『鴎稲荷神社』(開運招福)が見える。この社に現存する石の鳥居には弘化2年(西暦1845年)建立と刻まれている所から、御鎮座はそれ以前となるとされている。その昔、漁師たちが祈願すると鴎(かもめ)が飛来し大漁であったと云うことから、鴎を大漁の兆しとして崇め、以後「鴎稲荷」と呼ばれるようになった。大正13年頃社屋を新築したが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。その後町民により再建され、現在でも初午の夜は篝火を焚き太鼓を打ち鳴らしているとされる。
多摩川沿いの道をそのまま突き当たりまで行くと『玉川弁財天』(金運長寿)に辿り着く。『玉川弁財天』は、江戸名所図会に“羽田村の南も洲の先にあり、故に羽田弁財天と称せり。本尊は江の島本宮巌屋弁財天と同体にして、弘法大師の作なりといへり。宝永八 年(西暦1711年)四月此地に遷し奉る云々”とある。社頭は、江戸新堀小西九兵衛という酒問屋が全て造ったとされ、境内の一部に常夜灯があり、沖行く舟の目標であったと云う。また、当社にまつわる様々な版画も残されている。現在の羽田空港内(要島・鈴木新田)にあったが、昭和20年9月連合軍の強制立退命令により現在地に遷った。
神社の社殿に詰めていた方々が、羽田の神社の中ではここが一番古い神社で、穴守稲荷より古いと自慢していた。
『この神社は広重の江戸名所図絵にも書かれている。』
『はあ、そうなんですか』
『広重と言っても初代広重が描いたんでそれだけ古い』
『そうなんですか』
しかし、歌川広重の初代が何年頃の人か見当がつかないため、その時は余り驚かなかったが、名所江戸百景は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)から同5年(1858年)にかけて制作した連作浮世絵である。広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられた。最終的には完成せず、二代目広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として刊行されたとする紹介を後で読んで、153年前に描き始めた中の一枚であるということを知り、それは自慢しても仕方がないと納得した次第。
『玉川弁財天』を出て川っぷちを左に行くと弁天橋に辿り着く。橋に続く道を左に曲がると『白魚稲荷神社』(無病息災)の前に出る。 武蔵国風土記によると”漁士白魚を初めて得しときは、まず此の社に供ふる。故にかく云へり”と社名の由来が記載されているとされる。多摩川の砂利砂採取が行われるようになった頃、この事業に従事する人たちの信仰を受け、社頭は大いに盛んであった。昔、この附近は藁葺き屋根が多く、漁師町特有の建込んだ家並みから、火事が起らないよう祈願する人も多く火伏せの神様としても信仰がある。その為か、この社は先の大戦の戦火を免れたという。
『白魚稲荷神社』の隣を右に曲がり、暫く歩き京浜急行羽田線の線路を過ぎると『穴守稲荷神社』に辿り着く。『穴守稲荷神社』は文化元年(西暦1804年)頃、鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防がしばしば激浪のため大穴が生じ、被害を受けた。そこで稲荷大神を祀り御加護を願った所、以後風浪の害も無く霊験あらたかであった。昭和20年の終戦によってて、米軍の羽田空港拡張のため現在地に遷座した。終戦当時から数々の神秘的現象が起った為、畏れられ取り壊せず活き残った大鳥居として、今でも空港内に聳えている。空の旅をする人達の中には、当社の御守りを授かっていく人も多いとされている。
以上の解説は、羽田七福いなり会が発行する参拝のしおりに記載されている内容である。所要時間約2時間ということであったが、初めての道をあちらこちら探しながら歩いていたので、本当ならもっと簡単に回れたのかもしれない。
御朱印は各神社に用意してあるということであるが、『穴守稲荷神社』以外は全て押印方式で、一部日付を手書きしてくれるところ もあった。『穴守稲荷神社』だけは手書きで記入した後、御朱印を押して呉れたが、まあ、普段人のいない神社であり、墨文字を手書きできる人がいなくとも仕方がないかもしれない。更に『玉川弁財天』が入ると七福ではなく、八福になるが、同じ羽田にあるよしみで、一緒に巡るようになっているのだと思われる。
しかし、この一巡りの道順で、戦争による被害を受けている神社が多い上に、戦後に進駐軍の追い立てを食らって遷座した神社まである。古い物が一気に無くなるということで言えば、戦争は最悪の行為と言うことが出来るが、何故無くならないのかという点でも戦争というのは捉え所のない鵺みたいな現象だといえる。
産業道路に面して太子橋の北詰に『羽田神社』がある。前回参拝した時には人がおらず、御朱印を戴けなかったので、『玉川弁財天』に行く前に『羽田神社』に寄った。『羽田神社』の御由緒によると、『羽田神社』は須佐之男命、稲田姫命(いなだひめのみこと)が御祭神で、羽田総鎮守、羽田の氏神さまとして羽田全域から現羽田空港まで広く氏子を有する。殊に航空会社各社の崇敬の念も厚く、正月から年間を通して運行安全祈願・航空安全祈願の参詣がある。また、文久元年(1861年)に疱瘡(天然痘)が蔓延した時、時の将軍・徳川家定が病気平癒祈願に参詣し治癒した故事により、病気平癒を祈願する参拝者も多い。
御祭神は御夫婦の神をお祀りする。従って縁結び・勝負事にも御神徳があると説明されているが、夫婦の神を祀れば何故勝負事に御利益があるということになるのかその辺は良く解らない。
約800年前の鎌倉時代に羽田浦の水軍の頭で領主だった行方与次郎が牛頭天王を祀ったのがその起こりとされている。徳川時代には徳川家、藤堂家等の信仰が厚く、明治元年(1868年)の神仏分離令により自性院境内に祀られていた牛頭天王社は、八雲神社として独立、明治40年に羽田神社と改称された。
境内には明治初年に造られた『羽田富士』があり、これは富士山に憧れた当時の人々がその姿を模倣して造った築山で、大田区の文化財に指定されているという。同時代の鉄製の天水桶には鋳物師・鍋屋七右衛門という銘のある珍しい物であると紹介されている。
『羽田神社』のお祭、通称『羽田まつり』は、御輿の担ぎ方が独特で通称『ヨコタ』と言われているとの紹介がされている。これは御輿を左右九十度に倒し、大きく揺れながら進む方式で、右の人が跳ね上がると左の人が沈む、これを交互に繰り返す一種独特の担ぎ方であるという。
7月最終土・日が夏季例大祭、日曜日の午後から行われる町内神輿連合会の渡御では12町会12基の神輿が3時間近くヨコタで練り歩くという。一度写真を撮りに行きたいところであるが、混雑を考えると腰が引ける。
(2009.2.21.)