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墓参り(柿田川・源平川・楽寿園)

日曜日, 3月 22nd, 2009

?? 鬼城竜生

暮れも間近な平成18年12月17日、親父は97歳を迎えて、終の棲家に旅立った。親父は生まれも育ちも静岡県の三島で、兵隊で満州に行っていた間を除いて、多分長期にわたって三島から出たことはないはずである。自分が長く住んでいた所にお墓を作るのは三島-01 当然の成り行きで、親子二代100年を超える居住地、しかも自分の出自である堂庭の蓮華寺に墓を作っている。

従って墓参りということになれば、三島に行くということで、8月12日(月曜日)に出かけることになった。ご多分に漏れず、市内の交通の便は悪い。バスの時間を見たが寸法の合う時間のバスはなく、三島駅前から車に乗ることにした。子供の頃は、三島広小路から堂庭まで歩いていたので、距離的にはさほどのことはないと思うが、それでも三島駅からでは1時間以上は掛かるかもしれない。

蓮華寺は、この辺りでは古いお寺になるが、最近は色々と手が加えられており、石仏なども増えて来ている。歴代住職の墓も整備され、記載されている墓誌を見る限り、歴史の重みを感じるものになっていた。

所で我が家の墓は、地元に住んでいる弟が来たと見えて綺麗に掃除がされていた。花も飾られていたが、やや萎びかけていたので、寺の近所に店開きしていた花屋から花を買ってきて差し替えるとともに、我が家から持参した線香を手向けた。

何時もなら直ちに帰ってしまう所であったが、今回は少し歩くことにした。と言うのも、三島に来る前、新聞の案内記事で、源平川に“三島梅花藻”の花が咲いていたというのを見たからである。正直、小・中学生の頃までは源平川に“三島梅花藻”の花が咲いていた記憶はあるが、その後は見たことがなかったので半信半疑、その確認のために市内を歩いてみることにしたのである。

寺の門を出て右に行くと柿田川に突き当たる。柿田川の直ぐ下流は狩野川との合流点で、この辺りは昔、芹を採ったりクレソンを三島-02 採ったりした記憶があるが、今は水が少なくなったのか、湿地遅滞は川の近傍に見られなくなっている。そういえば小学校5年くらいの時に芹を採りに川岸に入り、胸位までズブズブ沈み、底なし沼に落ちた探検家みたいな気分になったが、今はそれほどの湿地は残っていない。

柿田川に突き当たって左に曲がり川を越える橋のたもとに神社があり、『柿田橋記』とする石碑が見えた。橋を渡って川沿いに上流に向かったが、驚いたことに分譲住宅が並んでいた。人口の減少が言われている中、この辺りで分譲住宅の希望があることに驚いたが、三島・沼津に、それほどの人間を養うだけの仕事があるのだろうかというのが正直なところである。

暑い中、歩きながら川岸を覗いていると、柿田川の川岸に蕎麦の旗を棚引かせている店が見えた。階段を下りて店に入ったが、間合いを過ぎていたので、客は誰もいなかった。冷や酒と蕎麦を頼み、眼の前の水面を見ていたが、“三島梅花藻”の花が咲いているのは確かに咲いていたが、此処は柿田川で源平川ではない。

その後柿田川の水源に辿り着いたが、此処も昔の水量は失われていた。柿田川は富士山に大量に降る雨や雪がやがて伏流水となり、あちこちの溶岩の裂け目をから噴出す、るその湧水群の中の最大規模のものがこの柿田川で、川幅約40-100m、長さ約1,200mはあるとされている。1日100万噸前後の湧水量は静岡県東部地区の飲料水として利用されている。 三島-04

中学生の頃この川でも泳いだことがあるが、水温が低すぎて5分とは入っていられなかった。水から揚がると唇は変色して紫色になり、身ぶるいが続くため、焼けた石に抱きつかなければいられなかった。そんな思いをして何故泳ぎに来たかといえば、三島の川の水は何処でも似たような冷たさということと、此処では上手くすると鮎が銛で突けるという成果が得られたからである。ただ、当時の中学生は、遊びに行くのにバスに乗る金がもらえるわけではなく、歩いて来なければならなかったのと、冷えた体を温めるための手頃な石が無かったため、余り評判の良い泳ぎ場ではなかった。つまり遠くまで来なくても、家の近所に適当な泳ぎ場がある。ということで、そう何回も泳ぎに来たという記憶はない。

帰りは広小路までバスで戻り、源平川を遡って、水源である楽寿園まで行ったが、本来、源平川の水源となる『小浜池・はやの瀬・中ノ瀬』に水がなかった。当然源平川に“三島梅花藻”などは影も形も見えなかった。

楽寿園内に併設されている郷土資料館と万葉の森を見て新幹線で戻ってきたが、いずれにしろ水の町三島の水源が、誘致した工場による地下水のくみ上げで、限りなく少なくなっているという現実だけはしっかり認識できた1日だった。本日の歩行数14,235歩。

(2009.1.30.)