仲木戸当たり
月曜日, 2月 23rd, 2009
鬼城竜生
8月2日(土曜日)暑い最中、止せばいいのに『嘉永年間(1848-1854)鶴見村の石工飯島吉六の作という。大きく立派な狛犬である。』というインターネットの紹介につられて、熊野神社を覗きに行った。京急線仲木戸駅下車で徒歩5分の位置だという案内が見ら れた。住所は横浜市神奈川区東神奈川一丁目の南西の端、ビルなどが建ち並ぶ街の一角に鎮座しているということであった。
嘗て東海道神奈川宿の中心部に当たるとされる京浜急行仲木戸駅は、JR東神奈川駅との乗換駅で、今までに何回か利用してきたが、ある意味、此処が東海道神奈川宿の中心部であるなどという認識は殆 ど感じていなかったが、交通新聞社発行(2002)の『京急線 全駅ぶらり散歩』の案内を見ると、仲木戸駅周辺には歴史的に重要な建造物が散在していることに気付かされた。
仲木戸駅を降り、15号線側に回り、右側に行くと金蔵院があり、その並びに熊野神社が見えた。熊野神社の縁起によると、『祀られているのは国常立尊・伊邪那岐命・伊邪那美命ということである。』この神社は『紀伊の熊野権現を祀る熊野神社で、創建以来千年近くの歴史を持ち、「権現様」として親しまれ、神奈川郷の総鎮守としての信仰を集めてきた。寛治元年(1087)の創建という。醍醐寺三宝院の勝覚僧正が紀伊の熊野権現(熊野本宮)の神霊を分祀し、神奈川権現山(現在の幸ヶ谷公園付近)に社祠を創立したものとある。後三年の役の帰途に源義家が立ち寄り、この地を「幸ヶ谷」と名付けたとか、権現山の社祠が山賊によって焼かれてしまったといった伝承がある。明応三年(1494)に再建、さらに兵火によって焼失したものを天正五年(1577)再建、その後徳川家の庇護を受けた。正徳二年(1712)金 蔵院の境内へ遷座し、さらに明治の神仏分離によって寺から分かれている。昭和十一年(1936)には鎮座八百五十年祭で大いに賑わった。戦災で社殿は焼失、戦後は駐留軍に境内地を接収され、現在の社殿は接収解除後の昭和三十八年(1963)の再建である。』とされている。
神社の入り口に鳥居があるのは当たり前であるが、鳥居の根方に大きな狛犬が鎮座ましましており、これまではあまり気にしてみてこなか った狛犬であるが、狛犬の制作者にも名人上手がおり、この狛犬を彫った“鶴見村石工・飯島吉六”は、その名人上手の中に入る石工のようである。勿論、代々“飯島吉六”を名乗っており、歴代名人が連続したというのではないだろうが、この狛犬を彫った吉六は他の狛犬と共に評価を受けている人のようである。更にこの狛犬が名をなしているのは、その設置場所の所以で、歴史的な風雪を受けていることで、特に戦災で焼け落ちた寺の跡地が、米軍の物置場として使用され、京浜急行の土手近くまで押し出された上、土に埋け込まれていた。その後土地の返還を受け掘り出された狛犬は、戦災による火焔の洗礼と土に埋け込まれていたために見る影もなかったが、土地の左官職が申し出て修理に当たり、今日の姿を止めているという、物語によって、猶更に凛々しく見えるということである。
熊野神社から東神奈川駅に向かって行くと、高札場なる看板の前に出ることが出来る。神奈川地区センターの前の広場に設置されており、嘗て滝ノ橋のたもとにあったものが復元されたものであると説明されている。高札は幕府の法度や掟などを一般の人々に伝えるための官制の告知板で、復原された高札は、当寺の寸法に基づいて再現されていると案内されていたが、かなり大型なものである。復原された高札には、伝達事項の一例として当時の伝馬賃等が書かれているとされるが、読めん。此の高札場という制度は、明治以降政治体制の変化と、情報伝達手段の進歩により姿を消したというが、今も町内会の連絡用の掲示板は残っている。
高札場を右に行くと、成仏寺が見える。鎌倉時代創建と伝えられる浄土宗の寺 である。横浜開港当初はアメリカ人宣教師達の宿舎として使われ、ヘボン式ローマ字で知られるヘボンは本堂に、聖書や賛美歌の翻訳に当たったブラウンは庫裡に住んだとされている。境内には竜宮での3年間が実は300年と知った浦島太?が、悲しみのあまり腰掛けて泣いたという“涙石”がある。
成仏寺から右へ、京浜急行線の線路を潜って出た先に慶運寺がある。室町時代に芝増上寺の音誉聖観(おんよしょうかん)によって開かれ、“浦島寺”とも呼ばれる。境内に立つ浦島観世音堂には、慶応年間(1865-1868)に焼失した浦島丘の観福寿寺から移された浦島太?が竜宮から持ち帰った観音像が祀られているとする紹介が見られる。横浜開港当初、慶運寺はフランス領事館として使用されたとされており、その史碑門前に建立されている。
慶運寺から15号線に出て、神奈川新町駅に向かう途中に良泉寺がある。浄土真宗大谷派の寺院で本願寺第八世の蓮如上人に帰依した蓮誉上人が、現在の横浜市港北区小机付近に創建、後に徳川幕府から境内地を賜って現在地に移転したと伝えられている。横浜開港当時、幕府から寺を外国人の宿舎として提供するよう命じられた住職は、これを良しとせず、本堂の屋根を剥がして「寺は修理中」との口実を作り、これを断ったというエピソードが残ると紹介されている。
良泉寺から京浜急行の線路を潜って直ぐの処に“笠禾皇稲荷神社”に行き会う。笠を被ったまま神社の前を通ると、何故か笠が自然に脱げてしまうことから、笠脱稲荷と呼ばれるようになり、後にカサノギに転じ、禾片に皇の字を当て『ノギ』と呼ばれるようになったという。天慶年間(938-947)観福寿寺の住職が稲荷山の山腹に社殿を建て、伏見稲荷を勧請したのが始まりと伝え られる古社である。境内には夫婦和合の象徴とされる大銀杏がある。また古くから笠禾稲荷に詣でると、瘡(カサ=できもの、性病など)が治ると伝えられているとのことである。
子安駅から京急新子安駅の直ぐ傍らにあるのが高野山真言宗の『遍照院』がある。此の寺の珍しいところは、寺の境内が、京浜急行の線路で分断されている事である。
さて、此処まで来て迷ったのが、杉山神社に行くべきか否かということである。天正2年(1574)創建の神社は、生麦・岸谷・大黒町の総鎮守。明治10年(1877)に作られた100段ほどの急な石段を登り切った先、巨木の傍らに鎮座する狛犬が変わっているという案内文が眼に付いた。つまり狛犬は見たし、酷暑の日中に階段100段はチョイトきついのではないかという事である。
しかし、狛犬を見ようということで出かけてきた以上、止めれば目的が達成できない。覚悟を決めて100段に挑戦したが、眼にした狛犬は、どう表現していいか分からないものであった。写真を見ていただければ分かると思うが、何だかナーというのが正直な感想。但し、熊野神社の狛犬の作者と同じ石工の手になるとする説もあるようであるが、相当違うというのが印象である。本日の総歩行数は12,225歩。
(2008.10.12.)