芭蕉めぐり

                                                                        鬼城竜生

 

大江戸線でめぐる「江戸・東京」歴史浪漫散歩(東京都交通局・(財)東京都交通局協力会)なる小冊子を手に入れた。大江戸線森下駅を中心とした紹介の中に“ケルンの眺め”として小名木川に架かる万年橋のたもとに碑が立っている。隅田川に架かる『清洲橋』は独逸ケルン市を流れるライン川に架かる大吊橋をモデルにして昭和3年(1828年)に完成したが、その清洲橋の優美なシルエ芭蕉-001 ットを見るのに最高のポイントがここということで碑が建てられたという紹介文があった。

巧く写真が撮れるかどうか、一度行ってみたいと思っていた。それとあと一つは、駅の近くにある飲み屋、煮込みが美味いという風評も気になっていたというのが正直なところである。

そこで取り敢えず2008年1月19日(土曜日)に出かけて見ることにした。例によって大門で大江戸線に乗り換え、森下駅で下車した。駅で『都営地下鉄駅長のまち案内』なる1枚物の地図を手に入れ、A1出口から地上にでた。

まず当初目的の万年橋を目指すべく、八名川小・八名川公園の前を通り、信号機のある交差点を右に曲がると、旧新大橋の碑なる物があった。碑の前の信号を左折すると、右手に芭蕉庵史跡展望庭園なるものが見えた。

史跡庭園は芭蕉記念館の分館で、隅田川と小名木川に隣接しており、庭内にある芭蕉翁像は、天ぷら船に乗った帰り、船頭の案内で隅田川を遡る時に見える銅像で、昼と夜では銅像の向きが異なるという話を聞いたが、事実は確認していない。しかも面白いことに、この庭園から清洲橋が真正面に見え、芭蕉記念館のパンフレットに芭蕉の座像を前景として清洲橋が取り込まれている。ま芭蕉-002 あその前に庭園の手すりが平行に撮し込まれているため、いわれるほどに胸に迫る写真にはなっていなかった。

庭園を出て直ぐの所に芭蕉稲荷大明神の赤旗がはためく神社があったが、芭蕉稲荷神社の扁額が掛かっていた。これは大正六年(1917年)の大津波の後、「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、地元では芭蕉稲荷神社として祀っているの説明が見られた。しかし、何で芭蕉遺愛の石の蛙と判ったのか、何で稲荷神社になってしまったのか、甚だ判りにくいが、蛙は「古池や」の句に関連した想像の産物なのかもしれない。また、芭蕉は隠密だったという説もあるが、あるいは術の一つとして狐を操っていたとでもいうのであろうか。

芭蕉は延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて日本橋から深川の草庵に移り住んだとされる。この庵を拠点にして新しい俳諧活動を展開し、多くの句や『おくのほそ道』などの紀行文を残している。この草庵には門人から贈られた芭蕉の株が生い茂っていたことから芭蕉庵と呼ばれていたとされるが、幕末から明治にかけて消失してしまったという。

常磐一丁目からの石蛙の出土を受け、大正10年東京府はこの地を『芭蕉翁古池の跡』に指定した。昭和56年(1981年)4月19日、江東区は芭蕉の業績を顕彰するため、芭蕉記念館を開館。分館は平成7年(1995年)4月6日に開館されている。

草の戸も住み替わる代ぞひなの家

古池や蛙飛び込む水の音

川上とこの川下や月の友

 

芭蕉記念館にこれらの句碑が建てられている。
芭蕉-003 会館内を見学した後、“たかばしのらくろろーど”を経由して再び森下駅に戻ったが、目的の一万歩に到達していないため、清澄白河駅まで足を伸ばすことにした。前回石彫りの梟を購入したことを思い出して、深川資料館通りにある“十代石幸”を覗いたところ新しい梟が飾ってあったので、買って帰ることにした。その時、店の若い衆が、「たいしたことは出来ないけどチョット養生しましょう」といって奥に引っ込み、白い紙に包んでポリの袋に入れて持ってきてくれたが、その前に購入した時も『養生』という言葉を聞き、暫く耳に残ったことを思い出した。

お茶でも飲もうと、深川江戸資料館の方に行きかけたところ霊巌寺なるお寺の門前に何気なく立ったところ、境内に松平定信の墓があるという案内があり、覗くことにした。松平定信(1758-1829年)は八代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた人である。天明七年(1787年)6月に老中となり、寛政の改革を断行、寛政五年(1793年)老中を辞任。定信は老中になると直ちに札差(ふださし)統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の立て直しを計ったが、あまりに詰めすぎて評判は悪かったようである。

テレビ東京金曜日の北大路欣也主演『幻十郎必殺剣』に白川楽翁(中村敦夫)が出てくる。いかにも怪しげな野心家に見えるが、本来なら徳川幕府の将軍職にも就ける立場を田沼意次に警戒されて養子に出されたという歴史的背景があるようだが、彼がやろうとした寛政の改革は、為政者としては別に悪いことではなかったのではないか。ただ、享楽に馴れきった庶民には、鬱陶しい規制が数多く、不評だったということではないか。いずれにしろ一度広げてしまった風呂敷を閉じることは難しい。悪名に耐えうる為政者芭蕉-004 が大鉈を振るわない限り、改革は出来ないということである。

その他、江戸六地蔵の一つである大型の銅造地蔵像があった。江戸六地蔵の造立の由緒については、「深川に住む地蔵坊正元が25歳の時に難病を患い、苦しんでいた折に、地蔵菩薩に一心に祈願する父母の姿に心打たれ、自身も一心に祈願し、ご利益が得られたなら多くの地蔵の造立を誓ったところ、不思議な霊験によってたちまち全快したことを感謝し、請願通り地蔵尊の造立を発願して江戸庶民から寄進を募って造立されたとされている。作者は鋳物師で神田に住んでいた太田駿河守藤原正儀と本体の背に刻まれているという。

全くこんなこととは知らず、真言宗醍醐派海照山品川寺(ほんせんじ)にある銅像を二度ばかり見たことがあるが、それが都指定有形文化財(彫刻)で、六地蔵第一番とされていることは知らなかった。しかし残念ながら現在六地蔵のうち五地蔵までは残っているが一地蔵は消滅したということである。

これだけうろうろさせていただいたお陰で、14,253歩を稼ぐことが出来た。

                                                                    (2008.3.15.)