Archive for 4月 25th, 2008

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『捕物帖の世界』

金曜日, 4月 25th, 2008

 

鬼城竜生

 

2月11日(月曜日)、建国記念日というので仕事は休み、しかも良い天気ということで、かねて行ってみたいと思っていた“回向院”に出かけることにした。回向院といえば、ネズミ小僧の墓があって、その墓の欠けらを持っていると博打に勝つというので、無闇に墓石が削られるという話で有名だが、実際はどうなのかということと、ついでに旧安田庭園なぞも覗いてみたいというのが主たる目的。

回向院-01 例によって例の如く『大江戸線』の『大門駅』で乗り換えて、両国へ。両国駅で『駅長のまち案内』なる1枚ものを手に入れて、A4出口から出たが、JRの両国駅に行く段になって、エッどっちだと迷ってしまったが、どういう訳か都会の地図を見るのは相変わらず下手くそというところ。

何とか回向院に行く道を見つけ出し、向かったが、回向院の門は、お寺離れをしているというか、何とも妙な格好をしているので驚いた。回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開基された浄土宗のお寺だというが、この時代の江戸で「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の人命が奪われたといわれている。

この災害で亡くなった人々の多くは、身元や身寄りのない人々であったとされる。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、回向院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて、無縁仏の供養をするため大法要を執り行った。このときお念仏を唱えるための御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりだという。

この成り立ちこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として、現在まで守られてきた回向院の理念だという。

回向院-02 無縁寺・回向院は一方で、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などが江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となった。また江戸中期からは、全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で殷賑をきわめた(この辺りは捕物帖にもよく出てくる部分)。更に江戸後期になると勧進相撲の定場所が同寺に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に残した。

こう見てくると回向院の歴史は、隆盛の一途をたどったかのように見えるが、同寺の説明によると、回向院自体も度重なる大火に被害をこうむり、明治の廃仏毀釈、大正の大震災、更には第二次大戦下の大空襲などによって、幾度か存亡の危機に立たされたとされている。

回向院の御本尊は阿弥陀如来で、かつては本堂を背にして露天に安置されていた、いわゆる濡仏であった。通称「釜六」といわれる釜屋六右衛門の作で、宝永二年(1705)に安置され、身の丈六尺五寸五部、蓮座三尺四寸五分もある大きな銅作りの坐像で、慈悲に満ちたふくよかなお顔に特徴があり、都有形文化財に指定されているという。し回向院-03 かし、拝見した限り露天に置かれていたと思えない艶やかな肌色をしており、銅製の仏像が野ざらしにされていれば緑青が吹きそうなものであるが、そのような痕跡は全く見られなかった。

その他、『塩地蔵』といわれている地蔵菩薩がある。参詣者が願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれてきたという。腐食がひどく年代等解らないが、「東都歳時記」所載の江戸東方四十八ヶ所地蔵尊参りには、その四十二番目として数えられているとのことである。

昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものとして『力塚』の碑がある。また回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し、上意によってその骸を回向院に葬ることになり、馬頭観世音菩薩像が安置されることになった。これは享保年中(1716-35)の頃から「江戸三十三観音」に数えられており、「江戸砂子拾遺」によると、回向院はその二十六番札所と記されている。回向院の馬頭観世音菩薩に祈願をこめると、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めました。幾多の災難にあい当時のものは焼失してしまったが、現在も昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所として多くの巡拝者で賑わっているとされる。

回向院縁起はこのくらいにしておくが、何とも不思議な光景は、動物関係の唐櫃や石碑が多いということである。確かに『ヒト・動物に係わらず』という回向院の理念からすれば、これが当然のことということになるが、他のお寺とは明らかに違った雰囲気を醸し出している。 回向院-04

  回向院といえばネズミ小僧の墓と言われる位有名であるが、写真を見ていただくと解るように、専ら削るべきものは、前にある白い石塔で、真っ白になっているところを見ると、頻繁に削られているようである。しかし、写真を撮っていて気が付いたが、ネズミ小僧の墓の横に猫塚があったが、これはネズミ小僧が出てきて騒ぎを起こさないようにするために隣に置いてあるのか。

しかし、猫塚の説明に『実話 猫に小判』と書かれていたが、『猫に小判』の童話の内容はどうなっているのか、それが知りたいところである。まあ、それは取り敢えず置くとして、回向院から真っ直ぐ国技館の前を通り、旧安田庭園を見に行ったが、感としては紅葉の時期でなければ写真にならないのではないかと思われた。その後、北斎通りに出て、通りを散策してみたが、腹が減ってきたので、飯を食うことにし、前回大江戸博物館に来た時と同じく『かつ万』なる店で、ロースカツを食った。最終的に美味いか不味いかは当人の口の感覚であり、他の人の共感を得られるかどうかは別の話しだが、当方は甚だ気に入っているということである。元々食べるということは、そういうことでいいのではないかと思っている。

当人としては相当歩いたつもりでいたが、結局一万歩は超えず、9955歩で終わった。

  (2008.2.2.)

何か違うんじゃあないんですか?

金曜日, 4月 25th, 2008

 

魍魎亭主人

政府・与党は、2008年度の診療報酬改定で、現在、病院が570円、個人経営の医院などを含む診療所が710円と異なる価格に設定されている再診料を、同じ価格に統一する方向で調整に入った。統一した再診料は650円-700円程度とする案が有力だ。再診料を病院で引き上げ、診療所で引き下げることにより、医師不足問題の原因となっている病院の勤務医の負担を軽減する狙いがある。

病院の再診料が、診療所より安いことが、患者が診療所よりも病院に通う傾向を助長し、病院勤務医の過剰な負担やそれに伴う勤務医不足の要因になっているとの指摘もある。政府・与党は、再診料の統一により診療所に患者が振り分けられる効果の他、病院の再診料の引き上げが勤務医の待遇改善に繋がることも期待している。

診療所の再診料引き下げについては、開業医の影響力が強い日本医師会などが医院の経営悪化に繋がるとして反対している。政府・与党は、日本医師会に対して?再診料引き下げで、診療所の患者が増える。?診療所による夜間など時間外診療や開業医による往診への診療報酬を手厚くする-等として説得していく方針だ[読売新聞,第47365号,2008.1.14.]。

『病院の再診料が、診療所より安いことが、患者が病院に通う傾向を助長し、病院勤務医の過剰な負担やそれに伴う勤務医不足の要因になっているとの指摘もある』と書かれているが、誰がそういうマヌケなことをいっているのか知りたいものである。患者が診療所ではなく、病院を選ぶのは、仕事の確実性と速さのせいである。更に最近の病院では、その日の朝検査を受ければ、その1時間後には、検査結果が出ており、それに基づいて医師の判断が得られるという、便宜性を評価しているからである。

勿論、病院が通院可能範囲にあるということも重要な要件ではあるが、何かあった場合に他科への紹介も院内ですませることが出来るという患者にとっての便宜性があり、病院に出かけるのである。診療所で同じ結果を得ようとすれば、何れの場合にも、結果を得るまでには、数日間を要することになるのではないか。

診療所の再診料が高いから患者は病院を選ぶのだというように、もし本気で思っていて、それに基づいた改善策を講じたとすれば、その改善計画は失敗する。単に患者が金銭的な問題だけで、自分の命の預け先を選んでいると考えていたとすれば、甚だしくお粗末な発想だといわなければならない。

最近の報道によれば、病院と診療所の再診料の差額解消問題は頓挫してしまったようであるが、病院の医師不足問題は、医師の給与を上げた程度のことで片付く話ではない。抜本的に改善するためには、病院における医師の人員配置を増やし、医師に対して知的再生産の時間を保証することである。朝から晩まで医師が患者の診療に追われている現状の病院の在り方をそのままにして、小手先の手直しをしたとしても、抜本的な解決にはならない。

(2008.2.3.)

『足も驚く菜の花畑』

金曜日, 4月 25th, 2008

鬼城竜生

11,399歩が、2008年1月9日に携帯電話の万歩計に出た歩数である。川崎駅から二宮駅まで、JRで出かけた。二宮駅では北口に出て、ロータリーを突っ切って坂道の取り付きに立つと、町役場から『吾妻山』という案内が目に付いた。

吾妻山-001 いきなり相当急な坂道を登って公園入り口の階段前に出たが、吾妻山の標高は136.2mという先入観をもって出かけたので、気楽に考えていたのだが、期待は見事に裏切られた。『吾妻山』の案内がされているHPに、『海辺から一気に立ち上がっている』と紹介されているのは伊達ではなく、階段は甚だしく急で、取り付いたはいいが息切れがして、二度ばかり休まなければならなかった。一つには山を登る階段にしては、普通の室内に設置されている階段のように幅の狭い階段になっているため、段数を昇と足に対する負担がもろに来るということのようである。最もこちらも予測以上に足腰が弱っており、山頂の展望台まで約20分ということであったが、その前に所要時間は使い切ってしまった。

ところで展望台に行くまでの道筋で、蝋梅の木を見つけたが、この間何回か眼にした蝋梅の花とは違って、縮れた糸みたいな黄色の花が咲いていた。木には蝋梅の名札が付いていたので、蝋梅に間違いはないのだろうが、しながわ水族館のあるしながわ公園の梅林に2-3本ある蝋梅の花とは別品種の花のように見えた。更に道筋の所々に水仙が植えられていたが、1-2本の花が見られるだけで、水仙の見頃を迎えるまでには、まだ少し時間が必要なようである。その他、頂上までの間に躑躅の木が植えられており、花の時期が来れば見事な花を見せる吾妻山-002 だろうと思われた。

展望台には既に何人もの人がいて花を見ていたが、展望台から見る菜の花の群落は息を呑む見事さであった。小学生の頃、菜の花畑はいくらでも見られたが、平面的に展開する畑とは違って、上から下に立体的に見える菜の花は、眼に迫るものが違って見えた。更に場所によっては、菜の花越しに遠方の山々を取り込んで写真が撮れるということで、風景の範囲を広げることが出来るという利点が見られた。どうやら晴れてさえいれば、展望台からは富士山も見えるようで、桜の花越しに富士山を写した写真がホームページ上に公開されていた。

吾妻山-003 帰りは『釜野』経由で川匂神社、西光寺経由で、石仏の写真を写しながら二宮駅に戻ろうと考えたが、朝飯抜き、昼飯まだという状態で歩く距離ではないような気がしたので、今回は温和しく吾妻神社方面の下り道を取ることにした。吾妻神社は縁結びの神様ということであったが、登りにはこちらの道を使った方が登りやすいのではないかと思ったが、さてどうなんでしょうか。

二宮駅の北口まで戻り、昼飯を食わずに川崎まで戻るのは無理と判断して、駅の直ぐ側にある和食専門の飯屋に入ったが、そこで食った鯵の叩き定食は、腹が減っていたのは抜きにして、旨い飯を食わせていただいた。

吾妻山公園で見られる花は、月別にそれぞれの花が見られるようである。菜の花(1-2月)、桜(3-4月)、ツツジ(4-5月)、紫陽花(6-7月)、コスモス(7-8月)。

ところで二宮駅といえば、国立病院の統廃合反対闘争の一環として、国立小児病院の二宮分院廃止が提案された時、反対闘争の支援のために二、三度下りた記憶があるが、その時は海側に出たので、南口に下りたのだと思うが、既に十数年前の記憶であり、南口まで行って周りの風景を眺めてみたが、定かな記憶としては残っていなかった。

(2008.1.18.)