紅葉巡礼
鬼城竜生
紅葉の写真が撮りたいということで、11月24日(土曜日)六義園に出かけた。蒲田から京浜東北線で田端まで行き、山手線に乗り換えて、駒込駅で降りる。駅を出て本郷通りを左側に行くと直ぐのところに入り口があるが、相変わらずの人気で、立て込んでいた。
しかし、そのうちに気が付いたのだが、入り口300米先という案内板が眼に入り、その入り口を目指すことにしたところ、たいした混雑もなく入園券を手に入れることが出来た。駒込駅に近い入り口は“染井門”で、我々が入った入り口に管理所が置かれているところを見ると、どうやらこちらが正門のようである。
六義園は、五代将軍徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が、元禄15年(1702年)に築園した“回遊式築山泉水”の大 名庭園で、池を巡る園路を歩きながら変化する景色を楽しめる繊細で穏和な日本庭園であると紹介されている。
庭を見てどの辺りが穏和で繊細なのか、理解できるほどに侘び寂の心があるわけではないので、庭園を見て穏和・繊細なる感銘は受ける前に、これだけの庭を造るためにどれだけの金を掛けたのかという下世話な話である。更にこの別邸に徳川綱吉が何回か招かれた事があるという話を物の本で読んだことがあるが、江戸城から六義園まで相当の距離があるが、これを駕籠に揺られてきたとすれば、駕籠を担ぐ方も乗る方も、相当我慢強いのではないかと変なことに感心した。
明治時代に入り三菱の創業者・岩崎彌太郎が別邸として手に入れたようだが、勝ち戦に乗って安く買い叩いたのではないかとつまらぬ事を考えたが、昭和13年(1938年)に東京市に寄付され、昭和28年(1953年)に国の特別名勝に指定されたということである。
しかし、庭が広すぎて、何処に何が植えられているのか、確認するところまで行かず、感動的な紅葉を見ることは出来なかった。 ただ、何日か後で、六義園の紅葉としてTVで放送しているのを見たが、見事な紅葉が映し出されていた。場所と日時が合いさえすれば、それなりの写真が撮れるということのようである。
折角ここまで来たので、旧古河庭園まで足を伸ばしてみようということで、駒込駅から本郷通りを登って旧古河庭園に辿り着いた。今年の7月当たりから左足の太腿に原因不明の痛みを感じるようになっており、長い道を歩くと足を引き摺るようになるため、若干つらかったのと薔薇が有名な庭園という印象を持っていたため、紅葉を撮るという目的からは外れているのであまり期待はしていなかった。
この場所は、明治の元勲・陸奥宗光(1844-1897)の別邸が あった場所で、宗光の次男・潤吉(1869-1905)が、足尾銅山で知られる古河財閥の創始者・古河市兵衛(1832-1903)の養子になった際に、邸宅も古河家の所有となったものだという。この庭園の建物は、大正六年(1917年)に古河財閥三代目当主・古河虎之助(1887-1940)が、英国の建築家ジョサイア・コンドルに設計を依頼して建てられたもので、洋風庭園の設計はコンドル自身が行っているが、庭園の大半を占める和風庭園は、京都の庭師・七代目小川治兵衛(1860-1933)、通称『庭師・植治』の手によるものだとされている。
大正初期の代表的庭園であるとされるこの庭は、当初、古河財閥の迎賓館として使われ、戦後は進駐軍の宿舎とされていたが、その後、国の所有とされ、平成18年(2006年1月)国の名勝に指定されたという。
古典様式の洋館の内部見学は、1日何回かに分け、時間と人数の制限をしているようで、運が良ければ入館できるようであるが、当日は人数制限の枠外ということで、入館することは出来なかった。『旧古河庭園』は、 テラス式の洋風庭園・和風庭園を絶妙に組み合わせた庭園として評価されているようである。特に和風庭園は、武蔵野台地の裾に入り込んだ低地を取り込み、土地の高低差を利用した庭園となっており、庭の彼方此方に灯籠等も配置されており、素人が写真を撮るには優しいというか、撮りやすい庭ということが出来る。
最も、和・洋両庭園の好みは、人それぞれで違うのだろうが、坂を利用し、水を多用した庭園の佇まいは、日本人好みである。痛めた足を庇いながら、本郷通りの最後の登りを文句を言いながら登ったが、庭園内では、その登った分を下った所に和風庭園があり、下って行く辛さはあったが、決して御損は掛けないという景観が眼前に展開した。
期待していなかった紅葉が、目の前に広がり、庭園の広大さはさておき、紅葉ということでいえば、六義園より数段上ではないかというのが正直なところであった。更にほぼ平らな六義園に比べて、谷底を望むような形で展開する旧古河庭園の方が、見た目には納得出来る庭園だったといえる。
(2007.12.23.)