Archive for 8月, 2007

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国立医療を考える[1]

水曜日, 8月 15th, 2007

1.組織は生き物である

組織は個人の集合体である。個人の集合体である以上、そこに個性が生まれ、自己主張が生ずる。しかし、組織である以上、個人の個性や主張を全て容認することはできないため、規則を定め、組織として個人の権利を規制し、組織としての方向性を示そうとする。

しかし、基本はあくまで個人であり、組織の活性化を図るためには、組織に属する各個人が、その組織の運営方針、組織運営の思想性を理解することが必要である。組織の活性化を図るためには、属する個人の一人一人が理解できる運営方針の明確化を図ることが重要であり、更に各個人の職務評価は、適切な評価-管理者や中間職制の恣意的な評価という誤解を招くことのない、第三者の評価に堪えられる評価でなければならない。

組織に属する各個人の労働意欲の低下は、組織の活性化を失わせる原因となることを忘れてはならない。

2.国立病院・療養所とは何か

国立医療機関である病院・療養所が、その設置されている地域における医療の中心的機関としての役割を果たしているのかを考えた場合、幾つかの施設を除外し、残念ながらそうなってはいないというのが現実である。

地域における医療ネットワークの中心的組織としての役割を果たすことが、国立医療機関としての当然の役割であり、高度・先進的な医療技術の移入のみならず、常に地域医療に対する協力体制を維持し続けなければならないはずである。

情報化社会において、情報の入手が早いということは、それだけで優位性を保つことができるはずである。その意味で、国立医療機関に勤務する各種職能は、地域における各種職能団体を支援すべき立場に立たなければならないはずである。

しかし、現実的には、地域の職能団体等から聞こえてくるのは、国立医療機関に勤務する専門職能は、地域職能団体の活動に対し非協力的であり、当てにならないという声である。これは国立医療機関に勤務する専門職能の問題というよりは、むしろ頻繁な転勤という社会人としての地域活動を無視した人事政策に、その原因の多くがあるとしなければならない。

3.国立医療機関の弱点

[1]単年度会計の問題点

現業である国立医療機関の最大の問題点は、国の会計制度と同様の『単年度会計』が導入されているということである。

経営改善の努力を行って予算が残ったとしても、繰り越し制度がない現状から、会計年度末には予算を消化しなければならないという、非合理的な予算制度が罷り通っている。

更に甚だしい矛盾は、年度当初には、節約、節約の大号令が掛かるが、会計年度末には、施設の節約を嘲笑うが如く、突然、予算が示達され、会計年度末である3月31日までに全て使い切ることなどという奇妙奇天烈な指示が出される。

このような場合、日常業務に必要であっても、通常予算では購入できない医療機器等を常に念頭において、直ちに購入申請を出すことで、運良く購入することができる場合もあるが、医薬品費として示達されたため、医療機器は購入できないなどということになると、とりあえず間に合っている医薬品の購入をせざるを得ないということになる。

何とも面白いのは『電脳』は、医療機器ではないため、医療機器の予算が突然示達され、業務上必要な『電脳』が欲しいなどといっても歯牙にもかけられないということである。

将に『性悪説』に立脚した国の会計制度の馬鹿融通の利かなさは感動的であるが、現業である国立医療機関には全く馴染まない制度であるとすることができる。

国立病院の職員を含めて、国家公務員には金銭感覚が無いという御批判を受けることが多いが、諸悪の根元は繰り越し制度のない国の会計制度にあり、職員の多くが、結果的に金銭感覚のない業務に馴らされているのである。

現在、国立医療機関は、独立行政法人化されるといわれているが、例え独立行政法人化されたとしても、会計制度の変革なしには体質の改善は起こり得ない。

独立行政法人化と同時に、企業会計の導入がされるというが、会計制度の抜本的な改革なしに、現業業務の活性化はあり得ない。但し、長い慣例に慣らされた職員、特に事務系管理職の発想の転換がなければ、制度の改革がされたとしても、有効に機能することはありえない。

[2]権限無き管理権

更に国立医療機関の管理運営上の問題点は、何等管理権限のない病院長の問題がある。例えば地域医療への貢献を企図し、診療科の変更を行おうと考えたとしても、厚生省の承認がなければ実行できない。

行政の判断に時間が掛かるのは通例のことであり、承認を得るために厚生省に上げるということは、現状では、実行しないということと同義語である。

明確な権限のないところに責任はないというのは世間の常識である。この実体を放置する限り、国立医療機関の将来展望は暗いといわなければならない。病院長に対する大幅な権限の委譲と同時に、病院長の公募制を導入すべきである。

自分が運営する医療機関をどうしたいのか、国の医療のなかで、自らが運営する医療機関は何を分担しようとしているのか、更に病院運営の基本を何処におくのか等々の理念を明確にし、国民にサービスする医療機関の長としての運営方針の明確な人材の登用をすることが必要であると考えている。

大幅な権限の委譲がされたとしても、明確な方針のない病院長には、施設の改善、患者サービスを最優先した医療機関の運営などは不可能であると考えるからである。

[3]理念なき転勤制度の廃止

次に問題点としてあげなければならないのは、『理念なき転勤制度』の廃止である。

事務系の管理職は、殆ど2年ごとに転勤を命じられている。その意味では自分が属する施設のために、地に足のついた仕事をしている暇がないというのが実状である。

小規模施設、中規模施設等の運営に経験を積み、やがては大施設の運営が可能になる人材を育成するなどという建前は承知しているが、実際には東京を中心とする大施設、あるいは関西を中心とする大施設の事務部門の長に、現場叩き上げの事務官が何人事務部長等として在職しているのか。

その実体は、殆どが本省経験者で占められており、病院運営に関する特段の理念、高邁な思想性に基づいて人員配置がされているとは考えられない。本省経験者は本省に人脈があり、予算等の面では若干の融通性が得られたとしても、行政手腕に長けていることが、医療機関の運営に適任であることの証明にはならない。

国立医療機関においても、施設運営の経済効率を図るとして、『経営改善何○○年計画』などという話を聞くが、地域の医療要求の実体を調査することもなく、病院の経営改善計画を立てることは不可能である。

何等科学的根拠のない経営改善計画は、地域住民=国民に魅力ある病院作りをし、増収を図るということではなく、施設内に限定された目先の経営改善計画を立案するということであり、医療機関としては、単にマイナス要因だけが残る計画にならざるを得ないと考えている。

現行の経営改善計画を見る限り、増収を図る計画ではなく、単に人件費比率を抑制し、見かけ上の改善計画が立案されているに過ぎないという言い方は、あるいは皮相な見方であるとされるかもしれないが、国立医療機関の内情を知る者としては、そう言わざるを得ないのである。

例えば、現に仕事があるにもかかわらず、看護助手、薬剤助手、あるいは電気、ボイラー、洗濯等々のいわゆる『行政職二』職種については、合理化の名の下に削減され続けているが、結果的に削減された助手の業務は、全て技術職が被ることになり、業務量の増加に悩まされている。

その一方で、専門職能は専門職能らしい仕事をと要求されるが、助手業務を代行しながら専門業務を行い得るほど人員の増加を図っていただいた覚えはないという思いは、現在の国立医療機関勤務者も思っているはずである。

電気やボイラーにしても、派遣職員が存在すればいいということではなく、もし電気が止まったとき、もし蒸気が止まったときという危機管理に対応するための人的投資であり、洗濯業務についても、院内感染防止という観点からの危機管理対応の職種であるはずである。

本省等の行政職場から見れば、『行政職二』職種の役割は終わったとする判断かも知れないが、医療機関ではそれぞれの専門職能が自ら自覚を高め自らの仕事に専念することが求められている。

頻繁な転勤のために、長期計画の立案者と実行者が別であるということが行われるという実体では、真の意味での経営改善計画の実行は難しい。最低限、経営改善計画の立案者と実行者は同一人であるべきであり、その成果を元に人事政策を立案すべきである。

病院経営の実績なしに、定席に就く現状の人事政策を実施している限り、病院経営に精通した人材の育成は困難である。

薬剤師等を含む『医療職二』職種の転勤にしても同様のことがいえる。

最近の人事異動を見ると、その目的が何処にあるのか不明な人事が見られる。転勤先に新しい技術を移入するために、その技術を持つ『医療職二』を移動させる。

新しい技術を学ばせるために転勤させる等の目的が明確な転勤であれば、転勤を命じられた側に不満は残らず、転勤者を受け入れる施設も、納得して受け入れるはずである。しかし、現状の転勤は、単に同一施設に長いからという機械的な転勤、何等、理念のない人事政策による転勤が実行されるため、転勤を命じられる側には不満が残り、受け入れ施設側も何等期待しない人事異動がまかり通る。

その結果、人事異動を命じる側は、恫喝的な態度をとるということに繋がっていく。

このような人事政策が継続されれば、明らかに職場の人心は荒廃する。医療機関における人心の荒廃は、医療過誤に密接に結びつき、患者に被害を与える結果にもなりかねない。

しかし、このような場合、医療現場にいる当事者が処分の対象にされたとしても、人心の荒廃を招いた側は処分の対象にもならないのである。自分達が管理しているのは医療機関であり、職員の士気の低下が、医療そのものを荒廃させることに心すべきである。

[2000.8.14.]

言語明瞭意味不明

水曜日, 8月 15th, 2007

-呑酸とは何か?-

医薬品情報21

古泉秀夫

添付文書を見ていると、時に“言語明瞭意味不明”の言の葉に行き合うことがある。

ハイゼット錠(大塚製薬)は一般名γ-オリザノールの製剤で

1)高脂血症

2)心身症(更年期障害、過敏性大腸症候群)における身体症候並びに不安・緊張・抑うつを承認適応としている薬である。

病院の医薬品情報管理室で、偶然ハイゼット錠の添付文書を見ていたとき、副作用の消化器の欄に

『消化器(0.1%未満):便秘、腹部不快感、食欲不振、腹痛、腹部膨満感、腹鳴、胸やけ、呑酸、無味感、口内炎等』

の記載が見られたが、中で『呑酸』という言葉は意味不明であった。そこで企業のプロパ(現在MRに名称変更)に『呑酸』とはどの様な症状なのかと質問をしたところ、『胸やけ』ですという回答だった。しかし、『胸やけ』は『呑酸』の前に胸やけの記載があるが、といったところ『先生も御承知の通り、副作用の記載は医師の報告の通り』という厚生省(現・厚生労働省)の指示がありますのでという回答であった。

「酸を呑むと胸やけが起こるという意味ですかね」

「そういうことかも知れませんね」

「しかし、医師から副作用の報告を受けたときに、報告医と相談して言葉の統一を図ることはできなかったんですかね」

「まあ、そのまま報告するという決まりですから、そのまま報告したものと思われますが」

等と訳の解らない遣り取りをしたのは今から20年ほど前である。

今年に入って、ハイゼット錠(2005.4.改訂)の添付文書を見る機会があり消化器系の副作用を見ると、依然として『呑酸』の記載がされていた。しかし、『呑酸』=『胸やけ』という簡単な図式は成立しないということは、20年前に調査した結果確認していたが、一度書かれた副作用の標記の改訂は、そう簡単に行かないということで、2005年4月現在も変更無しということのようである。

ところで『呑酸』という言葉は、南山堂医学大辞典(第18版-1998・第19版-2006) には収載されていない。収載されているのは『呑酸?囃(ドンサンソウソウ)』=『胸やけ』である。医学大辞典によれば『呑酸』という言葉では、『胸やけ』に該当せず、『呑酸?囃』として初めて『胸やけ』に該当する。

さて『呑酸』は通常使用されている国語の辞書には収載されておらず、大字典(講談社)では『呑酸』=『おくび』とする記載がされている。つまり『呑酸』はとてものことに胸やけでは通用しないということである。この『おくび』は何かというと、これは新潮現代国語辞典第二版にも収載されており、『おくび(?気)胃にたまったガスが口から出るもの。げっぷ』となっている。『?気』の読みはアイキとするものとそのままオクビとするものがあるが、一般的にはアイキではないか。

『?』→サウ、セウ、ゼウ、ザウ。カマビスシ、騒がしき声。字源:形聲。喧しく騒がしき聲。故に口扁。曹(サウ)は音符。

『囃』→サフ、ザフ、ハヤシ。ハヤス、舞を助ける聲、鼓舞。字源:會意形聲。舞を舞う時聲を合わせてハヤスこと。故に口と雑を合わす。

『?』→アイ、イキ、オクビ。アクビ。字源:形聲。咽のこと。故に口扁。愛(アイ)は音符。

『?気(アイキ)』→おくび。くさき息気。

以上は大字典の記載である。  因みに医学大辞典は『アイキ』の見出し語はなく『おくび』 [英:eructation、belching]が見出し語である。新明解国語辞典では『アイキ』の見出し語はなく、『?』一文字で『おくび』の見出し語が付けられている。

兎に角この『呑酸』という標記は、『酸を呑めば胸やけがする』という想像力を働かせるが、情報の正確度ということからすれば、最悪の標記である。しかし、一度書いてしまった添付文書の中味は、相当の理由がなければ書き直しを認めないということで、修正はされなかったということのようである。

大学で教えていた医薬品情報学の授業で、添付文書の問題点として、この事例は長い間肴にしてきたが、2006年6月、製薬企業から添付文書の改訂情報が出され、それを見ると、何と

『呑酸』→『げっぷ』

に書き改めることになったという連絡文書だったのである。

(2006.6.17.)

劇場化-何かおかしくはないですか?

水曜日, 8月 15th, 2007

鬼城竜生

最近の大衆報道、特に世間の事象に対するテレビの食い付き方は異常ではないのか。人はそれぞれいろんな意見を持っているのが当たり前で、個人的な考えに基づいて行動することが、許されるから自由主義社会ではないのか。

郵政民営化に反対したから公認は認められない。選挙区に関係なく、大衆的人気に依拠するあるいは職能団体として多くの票を握っている、挙げ句の果てには何の政治信条も示していない虚業家みたいな人間まで引っ張り出す。

それに対してテレビは、何の批判をするわけでもなく、やれ刺客だ、それ選挙の劇場化だのとうれしがり、声を大にして連日騒いでいるが、それでは単なる野次馬である。今、報道機関がやらなければならないのは、小泉氏のいう郵政民営化の実証的な検証と、到達象ではないのか。更に各政党が挙げている政策の実現性の検証も報道の重要な役割ではないのか。

郵貯の貯金額が多いから民業を圧迫するというが、庶民が郵貯を利用するのは、銀行との比較で安全だと本能的に考えているからではないか。更に民間企業も、民業を圧迫するから郵便業務を民営化するよう国に働きかけるのではなく、銀行預金の利息を上げて、郵貯より有利であることを喧伝したらどうだ。第一何時まで利子を支払わずに人の金で稼ごうと考えているのか。何かといえば、民業万能論を振り回す方々がいるが、アブク経済の時代土地転がしに狂奔し、あげく銀行を借金漬けにして国費の導入を求めたのは、民業万能論者の諸氏ではなかったのか。

郵貯・簡保で集められた金が『国債』に流れ、官僚の無駄遣いの原因になる。それを断ち切るためには『改革』が必要で、その改革こそが『郵政改革』=『郵政民営化』であるという理屈のようであるが、国債の発行を認めてきたのは自民党ではないのか。郵貯・簡保の資金が、自動的に公共事業や特殊法人に流れる仕組みは、既に2001年(従来、郵便貯金や年金などからの借り入れによって賄われていた財投計画は2001年4月から「財投債」の発行という形態に変更された。)に終焉を迎えている。

やれ高速道路を作れ、新幹線を通せ。都道府県のみならず、末端の市町村までが、箱物を作ることで自民党は政権を維持してきた。その全てが国債に依存して行われてきたのではなかったか。現在、郵貯・簡保は、運用先として政府の財政投融資計画(財投計画)に必要な資金をまかなう国債(財投債)を購入している。しかし、これは民間の金融機関もやっていることである。

いずれにしろ最大の問題は、政治家がそれぞれの出身地の権益を代表し、無闇に国の予算を引っ張り込みたがるところにあるといえる。その金は何処に行くかといえば、それぞれの地方の民間会社であり、会社の規模に関係なく、国民の金を食いまくってきたというのが我が国の実情である。

政治家が身の丈にあった財政の中で国の運営を指示すれば、官僚はそれに従って仕事をやるはずである。国家公務員が多すぎるというが、国会議員が官の仕事を増やし、役人を増やしてきたのではないのか。その反省無しに何の改革をしたところで、中途半端に終わる。今回の衆議院選挙、争点は『郵政民営化』賛成か反対かなどという単純な話ではなく、アジア地域における外交問題、少子化問題も含めて、この国の明日をどうするのかということではないのか。

(2005.8.24)

言論の自由と言論の暴力

水曜日, 8月 15th, 2007

鬼城竜生

親が有名人であったとしても、独立して生活している子供の私的生活を、週刊誌などに書かれる筋合いはな い。田中衆院議員の長女が「週刊文春」の出版差し止めを求めたのに対して、東京地裁は2004年3月17日発売の同誌の出版を禁じる決定を出した。

言論の自由に係わる重要な問題を、一人の裁判官が短時間に判断するのはけしからんというテレビの解説 者も居たが、仮処分の決定は、緊急の判断を要するものであり、一人の裁判官が短時間に判断したとしてもやむを得ない。

「週刊文春」は審尋で、記事掲載の理由として『(長女は)政治家になる可能性もあり、公益性はある』と主張 したとされるが、言論の自由を錦の御旗にして、こんな揣摩憶測に基づく勝手な言い分が罷り通ったのではたまったものではない。

少なくとも一般人にとって、新聞・週刊誌・テレビという、いわゆるマスコミは、権力なのである。権力を持つも のは、その権力の行使に際し、細心の注意を払うのは当然のことであり、全てを言論の自由、国民の知る権利で切り捨てられたのではたまったものではない。更にいつも不思議に思うのは、『国民の知る権利』とおっしゃっ て、あたかも国民の代表のような顔をしているが、いったい誰が判定して週刊誌に国民の代弁者としての地位を渡したのか。少なくともあたしは一度もお願いした覚えはないが、誰かに委任状でももらったとでもいうのであ ろうか。

国民を代表するというのであれば、最低限国民としての常識は、持っていてもらわなければ困る。今 回の問題でも、マスコミ関係者の論調を聞いていると、あたかも正義の具現者は我なりといわんばかりの発言をされていたが、その思い上がりで、全てを律されたのではかなわない。無辜の民にも正義はあるのである。 ただ、無辜の民は何の権力も持たず、他人に影響を及ぼす範囲は甚だ少ないということである。

正義を具現 するなどという思い上がりに、どっぷりつかっていると、全ての判断が、正義であるという誤った思いに囚われる のかもしれないが、単なる私人を自分たちの勝手な思い入れで、公人扱いにしたということに明確な反省の意志を示すべきである。 東京高裁判断で、出版禁止の仮処分決定は取り消されたが、同時にプライバシーの侵 害は有るとするとともに、記事の公共性と公益目的を否定した。 少なくとも『表現の自由』という思想は、マス コミの横暴やマスコミの暴力を容認するために存在するわけではない。更にマスコミ人自らが、節度を持った対応をすることで守らなければ、守れきれるものではない権利だということを、常に自戒すべきである。

(2004.4.15.)


  1. 読売新聞,第45972号,2004.3.18.
  2. 読売新聞,第45986号,2004.4.1.

薬とは何の関係もありませんが-古池や

水曜日, 8月 15th, 2007

鬼城竜生

薬と直接の関係はないが、最近、妙なことに嵌り込んでいる。というのも先日、東京都の管理する公園で、芭蕉の『古池や蛙飛びこむ水の音』の句碑を、見る機会があってのことであるが、これが何故、芭蕉を代表する句なのかというところが、よく見えないということである。

別に俳句を勉強しているわけではないので、どうでもいいようなものではあるが、それにしても世間一般の評価の足元ぐらいには、近づきたいものと思うわけである。

この俳句『古池に蛙が飛びこんだ水の音が聞こえた』というだけのことであれば、『それが何よ』というこであるが、それでは芭蕉の代表的な句であるという評価からは甚だ遠い理解ということになるのではないかと思われる。

しかし、一方で、お前さん、こんな俳句を作れるのかといわれれば、それはとても無理で、この何気なさというのは、ある意味で恐ろしい力だといわなければならない。

ところでこの句、最初の句の形は『古池や蛙飛んだる水の音』だったのではないかといわれているそうである。

更に『古池や』のところも、最初からそうだったのではではなく、同席していた其角の提案で『山吹や』としていたとされるが、最終的に『古池や蛙飛びこむ水の音』に変化していったのではないかとする考証が報告されている。

和歌では蛙を詠むときには必ず鳴き声を詠むのが決まりで、それが文学の伝統です。蛙の声は散々和歌で詠み古されている。それを蛙を詠んで鳴き声にふれず、水に飛びこんだ音をもってしたというところにこの句の新しさがあり、俳諧らしさがあります。

伝統的な叙情を捨てて、蛙がどぶんと水に飛びこむという、ごく卑近なことを素材に取り上げたのは、いわば俳諧の根底にある「滑稽」です。 その滑稽に対して「古池や」という上五文字を冠らせたことによって、滑稽が下の方へ押さえこまれ、内面化され、閑寂な風趣が表面に出てきます。

逆に言うと、古池をただ古い、寂しい池としてのみ詠むのでなく、思いがけない蛙の飛びこむ音をもって古池に配したことによって、俳諧らしい詩情が成り立つのだと言えましょう。「古池」と「蛙の飛びこむ音」とが微妙なバランスを保ち、互いに抵抗しながら助け合って詩情が成り立っています。

「蛙飛んだる」では、滑稽が勝ち過ぎて、古池との間に距離があり過ぎます。微妙なバランスが崩れて、両者の間に切断が生じます。

芭蕉が初案からだんだん工夫して、この微妙な釣り合いを作り上げたのは、さすがであり、この句が昔から蕉風開眼とされているのは、一理あることだと思います[井本農一:芭蕉入門;講談社学術文庫,1977(第38刷,2005.4.)]。

この解説を読んでいて、解りそうで解らないといういがらっぽさを感じた。将に隔靴掻痒の感というところである。つまり、これは一つの約束事ということなのであろうが、『滑稽』の字面に引っ張られて、今一意味が理解できないのである。つまり『古池や蛙飛びこむ水の音』を理解する上で、重要な部分を『滑稽』という戯れ言みたいな言葉で説明されても困るということである。

ところで最近、読売新聞(第46788号,2006.6.14.) の『芭蕉再発見 対談(中) 蕉風とは』の中で、長谷川櫂(俳人)さんと横浜文孝(江東区芭蕉記念会館次長)さんの遣り取りが見られるが、『古池や蛙飛びこむ水の音』の句について、長谷川氏が「多くの人が『古池に蛙が飛びこんで水の音がした』と解釈しているが、それだとつまらない。なのに、この句は蕉風開眼の句といわれていて………」 ?解釈が違うと確信したきっかけは。

長谷川「弟子の支考の『葛の松原』に、こうあります。芭蕉が庵で句を案じていると、蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきた。そこでまず『蛙飛びこむ水の音』と詠み、上五を考えた末に『古池や』と置いた。」?池を見ていたわけではないと。

長谷川「蛙が飛びこむ水の音は聞いたが、古池は見ていない。音を聞いて古池が心に浮かんだ………と解釈しなければならない。そうすると面白くなる」?どう面白いのか。

長谷川「蛙が古池に飛びこんで水の音がした、とすると『間』が全くない。けれど、音を聞いて心の中に古池が浮かんだとすると、『古池や』と『蛙飛びこむ水の音』の間に『間』が生まれる。この『間』は時間的、空間的であると同時に心理的なもの。現実の音を聞き、心の世界が開けた。この心の世界が蕉風であり、それを開いたことが開眼です。」

横浜 「古池の句は記念館近くの一帯にあった芭蕉庵で詠まれました。江戸後期の木版本は、庶民に受け入れて貰うためこの句をビジュアル的に表現した。芭蕉庵があって古池があり、小さな蛙が池に飛びこもうとする絵が描いてある。句と出版業が商業ベースで結びついて解釈された。

長谷川 「芭蕉が沈思にふけり、外から蛙の飛びこむ音が聞こえてくる場面の絵もあります。しかし、古池は心の中のもの。そもそも映像には馴染まない。」

横浜 「芭蕉庵周辺は湿地で、蛙が生息しやすかった。今も記念館の庭に蛙が姿を現します。『芭蕉翁古池の跡』として史跡に指定された芭蕉稲荷も近いのですが、近辺に池はない。庵が芭蕉没後に武家屋敷に取り込まれ、滅失したからでしょう。記念館の庭の人工の池を指して『あれが古池ですか』と聞いてくる人がいます。」

この対談の内容は、芭蕉の弟子の話を引用することから出発しているが、井本氏の論述とは若干その内容に相違が見られる。最も、弟子が師匠を偉く見せようとするのは当然のことであるから、先に音があって、古池に蛙が飛びこむのを見たわけではないと書いたのかも知れない。

しかし、蛙が飛びこむ音を聞いたのは夜だったのか?。 夜であれば蛙があちらこちらで鳴いており、何かに驚いた蛙が鳴き止んで水に逃げたとも考えられる。その音を聞いて『蛙飛びこむ水の音』としたのかも知れないが、何で『古池や』なんだということである。

多分、当方の『古池』に対する印象が、せこいのではないかと思われる。古池というと、どういう訳か手入れの悪い枯れ葉の落ちた薄汚い小さな池を思い浮かべてしまうが、芭蕉が住んでいた時代の深川は湿地帯だったということであり、池といっても人工の池とは限らないはずである。

まあ色々考えてみても、解らんものは解らんということで仕舞いであるが、従来の俳句とは異なり、自然な諷詠ということでの位置づけかも知れない。まあ、暫く捏ねくり回しているうちに、何時かひょいと理解が行くかも知れない。

薬の回収-原因は色々ありますが

水曜日, 8月 15th, 2007

魍魎亭主人

『トローチに毛髪』

製薬メーカー「興和」(東京)は14日、「新コルゲンコーワトローチ」の錠剤中に毛髪が混入しているのが見つかったとして、同時に製造した 23,760箱を自主回収すると発表した。回収対象は昨年8月から10月に出荷され、箱の側面に「LH5C」という製造番号が記載されているもの

[読売新聞,第46728号,2006.4.15.]。

『子ども用風邪薬金属片混入で回収』

医薬品製造販売会社「池田模範堂」(富山県上市町)は25日、子ども用風邪薬「ムヒのこどもかぜ顆粒」に金属片が混ざっているのが見つかったとして、約14万箱の自主回収を始めたと発表した。

この製品は、第一薬品(富山市荒川)が製造、池田模範堂が販売。金属片は、生産時に使用していたステンレス製のふるいの一部が欠けたものという。回収対象製品は2004年8月から12月の間に出荷され、箱の外側に「T01」から「T09」の製造番号が記載されている

[読売新聞,第46739 号,2006.4.26,]。

企業にとって、製品に不純物が混入することは、間接的損失として製品回収経費、直接的損失として製品廃棄による損失等が考えられる。それだけに各製造工程は、徹底した管理が行われているが、それでも不純物が紛れ込むことは避けられない。

従前、病院の現場で、注射薬のアンプル内に小さな虫が入っているのを見つけたことがあるが、指摘された製薬企業は、工場の管理の徹底をあげつらい、考えられないと主張していたが、未開封のアンプル内に外部から虫を入れることは不可能であり、全ての製造工程が真空状態にでもなっていなければ、必ずヒトについて虫は入るという意見に、納得せざるを得ないということになった。

ところで、工場の管理の徹底について、次のような基準が定められている。

『ホ 次に掲げる場合には、バリデーションを行い、その記録を作成すること。

  1. 当該製造所において新たに生物由来製品等の製造を開始する場合
  2. 製造手順等に生物由来製品等の品質に大きな影響を及ぼす変更がある場合
  3. その他生物由来製品等の製造管理及び品質管理を適切に行うために必要と認められる場合

ヘ 製造作業に従事する者以外の者の作業所への立入りをできる限り制限すること。

ト 次に定めるところにより、作業員の衛生管理を行うこと。

(1) 現に作業が行われている無菌区域又は清浄区域への作業員の立入りをできる限り制限すること。

(2) 製造作業に従事する者を、使用動物(製造に使用するものを除く。)の管理に係る作業に従事させないこと。

チ 次に定めるところにより、清浄区域又は無菌区域で作業する作業員の衛生管理を行うこと。

(1) 製造作業に従事する者に、消毒された作業衣、作業用のはき物、作業帽及び作業マスクを着用させること。

(2) 作業員が材料又は製品を微生物等により汚染するおそれのある疾病にかかっていないことを確認するために、作業員に対し、六月を超えない期間ごとに健康診断を行うこと。

(3) 作業員が材料又は製品を異常な数又は種類の微生物により汚染するおそれのある健康状態(皮膚若しくは毛髪の感染症若しくは風邪にかかっている場合、負傷している場合又は下痢若しくは原因不明の発熱等の症状を呈している場合を含む。)にある場合には、申告を行わせること。

さて毎週土曜日の午後7:00-7:44分に放送されるNHK教育の「サイエンスZERO」第111回は『漢方薬の新潮流西洋医学との融合』という番組で、キャスターの“眞鍋かをり”氏が漢方薬メーカーで、118種類もあるという漢方薬の材料の生薬を見せてもらうという主旨のものである。

その番組に何で文句をいうのかといえば、真鍋氏の作業帽の被り方なのである。工場内 に入るときに被る作業帽は、おしゃれのために被るものではなく、 髪の毛を落とさないために被るものであり、その意味では真鍋氏の 被り方には違和感を感じるということである。

女の髪は象の足も繋ぐといわれている。一本でも落ちれば、探し 出すことは困難なのである。

誰の発案でこのような作業帽の被り方になったのかは知らないが、少なくとも科学番組と銘打って放送するからには、規定通りの被り方をするべきではなかったかということである。

このような意見に対して、細かなことに目くじらを立てるなという声があるかも知れない。しかし、人の口に入るものを製造する工場では、細かなことの積み重ねが、工程管理の基本なのである。番組の内容からいえば、彼女がスッポリ髪を隠すように作業帽を被ったとしても、何の問題もなかったと思われるだけに、基本的なところをないがしろにしていると見られる結果となったことは残念である。

(2006.5.11.)

薬の安全性

水曜日, 8月 15th, 2007

『薬の安全性』はどうやって決めるのかという質問を受け、通り一遍の返事はできたとしても、より詳細な内容は、調べて見なければ分からないと いうことで、調査した結果は以下の通りである。

医薬品のヒトに対する有効性と安全性を確認するためには、最終的にはヒトによる臨床試験で、有効性と安全性を確認することが必要である。  しかし、そのためには、事前に動物による実験によって、安全性を予測することが必要となる訳である。 安全性を確かめる動物実験では、小動物と大動物が用いられるが、小動物は主として囓歯類、大動物はヒトに近い霊長類も用いられるが、一般的には犬が多く使用される。

毒性試験には、一般毒性試験と特殊毒性試験の2種類が挙げられる。

一般毒性試験 単回投与毒性試験 (急性毒性 試験) 被験物質を1回投与 したとき に観察される毒性を質的・量的に明らかにすることを目的にしたもの。この試験により概略の致死量を求める。概略の致死量とは、必要最小限の動物を用いて、大きな間隔で幾つかの異なる用量の被験物質を投与した時に観察される死亡率から、致死量が存在するであろうと推定されるおおよその範囲である。
反復投与毒性試験 (亜急性、 慢性毒性試験) 被験物質を繰返し投 与した 時、明らかな毒性変化を惹起する用量とその変化の内容、及び毒性変化の認められない用量、即ち無毒性量(No-Observed Adverse Effect Level)を求めることを目的としたものである。なお、毒性変化と薬効薬理作用に基づく徴候とは、区別が困難なことが多いので、生データ、最終報告書には観察された徴候の全てを記載し、考察においてどの徴候が薬効薬理作用に基づくかということを記述する。また標的器官・組織に変化が見られなかった最大容量を、最大無影響量として記述することが求められている。
回復性試験 毒性変化の回復性と 遅延性毒 性を検討するため、1ヵ月又は3ヵ月の反復投与毒性試験では回復毒性試験(Reversibility study、Follow-up test)を行う。出現した毒性変化が可逆的変化であるか、非可逆的変化であるかを見るものであり、その毒性変化の重篤度を知る上で重要である。この試験は、通常、毒性試験を実施した群のうち高用量の1-2群と対照群を対象に実施する。
特殊 毒性試験 生殖・発生毒性試験 (segment I:精子形成・交配能、segment II:器官形成・催奇形性、segment III:授乳・哺育能、異常新生児・異常分娩) 医薬品を生体に適用 したとき に、その生殖能と後世代に対する影響を検索することを目的として実施される動物試験で、催奇形性試験(teratogenicity test)及び世代生殖毒性試験(generation reproductive toxicity test)である。この検索の結果は、ヒトの生殖・発生過程に対する安全性評価の貴重な資料となる。

本試験法は医薬品開発に対して、固守するよう求めるものではなく、基本姿勢としては得られた所見が臨床上の安全性評価に適するものであるならば、他の適切な方法の採用も可能とされている。

具体的に生殖・発生毒性とは、薬物によって引き起こされる毒性のうち、特に雌雄の生殖細胞の形成、受精と着床、胚や胎児の発育、妊娠の維持や分娩、授乳と哺育並びに生後の発育などに対して有害な反応を引き起こす毒性。

局所刺激試験 実験動物の皮膚・粘 膜などに 被検物を局所的に適用した際に主として当該局所に現れる障害を検査する試験。
皮膚感作性試験 皮膚外用剤について Adjuvant and patch test等。
皮膚光感作性試験 皮膚外用剤、皮膚光 感作を有 する可能性が考えられる薬物についてAdjuvant and strip法等の試験の実施。
依存性試験 生体と薬物の相互作 用の結果 生じる特定の精神的状態(時に身体的状態を含む)の発現について検討する試験。
癌原性試験 主として実験用小動 物に腫瘍 を発生させる実験を行う。
変異原性試験(復帰 突然変異 試験、染色体異常試験、小核試験) 変異原性試験(遺伝 毒性試 験)とは、ある化学物質が、生物の遺伝物質(DNA)に作用して、選択的に化学反応を起こしたり、その分子構造の一部を変えたりする性質(変異原性)があるかどうかを調べるものである。この作用が体細胞に生ずると発癌の、また生殖細胞に生ずると種々の先天異常を引き起こす原因となる。
抗原性試験 薬物アレルギーの可 能性につ いて、動物を用いた厳重な試験を行う。

*能動感作による抗原性の検出。*受身皮膚アナフィラキシー(PCA)反応による抗原性の検出。*受け身赤血球凝集(PHA)反応による抗原性の検出。

試験対象動物を選ぶ場合には、薬物による感度や腸管吸収、胆管循環、肝薬物代謝酵素等がヒトと類似する動物を選んで実施する。

毒性試験は、ヒトへの適用上、最大無作用量(作用を起こさない用量の限度)とと もに、発現頻度、質的毒性も明らかにする必要があるとされている。薬物の有害作用の機序を、動物で解明することは、危険度や安全性をヒトで推測する上で役立つものである。

動物試験の結果を受けて第I相臨床試験に進む段階で、ボランティアは男性に限定されることを考えると、反復投与試験、segment I、アレルギー反応、変異原性試験、不可逆反応の有無等、疑いがある場合は、癌原性試験などを終了することが道義的にも求められる。

生体にとって全ての物質は毒物であり、毒でないものはないとさえいえる。これらの有害作用の機序を、動物で解明することは、ヒトでの危険度や安全性を推測する上で役立つものといえる。動物の試験で毒性を示す用量は、薬物によって異なるが、一般に50%致死量(LD50)で示される。目的とする薬理作用を示す有効性は50%有効 量(ED50)で示される。半致死量と半有効量の比LD50 /ED50 を安全域(sefety margin)と呼んでいる。

薬の有効性、安全性が動物段階で確認されたとしても、必ずしもヒトで同じことが起きるとは限らない。ヒトへの適用は十分な管理下で少量の薬物 より次第に用量を上げ慎重に臨床試験が行われる。

第I相臨床試験 健常男子志願者への 投与によ り安全性及び血中濃度(体内動態)の検討を行う。但し、抗癌剤は有志患者により行う。
第II相臨床試験 少数の患者、厳重な 監視下で の投与。合併症のない軽度の男女患者を対象とする。前期第II相臨床試験:少数例、後期第II相臨床試験:多数例に区分し、有効性、安全性を確認、至適用量を設定する。
第III相臨床試験 適応疾患及び患者数 を更に拡 大し、主として有効性、安全性について検討する。

Open Trial:通常の臨床治験で、医師、患者の両者が使用される治験薬を承知した上で、治療が行われ薬物の有用性(有効性と安全性を加味しての表現)を確認する。

Double Blind Test(多施設二重盲検試験):患者を厳格に選定し、被験薬物、対象薬、偽薬(placebo)を用い、通常100-300人の男女患者を対象に実施し、薬物の有用性(有効性と安全性を加味しての表現)を確認する。

第IV相臨床試験 市販され実際の診療 の場で一 斉に多数の患者に使用されるので、安全性の問題で極めて重要な相である。限定された患者でなく、高齢者、小児、肝、腎その他疾病患者、時に妊婦などあらゆる患者が対象になるので、第III相臨床試験までの間に見出されなかった副作用が発現する場合も多く、薬の真価が問われる。

動物実験で、安全性の確認された物質について、第I相臨床試験から第III相臨床試験までの臨床治験で、ヒトに対する有効性・安全性を確認する。但し、動物実験によって安全性に関する全ての事項が解るわけではなく、第III相臨床試験段階を無難に通過したとしても、それで安全性の全てが確認されたわけでもないことを理解しておかなければならない。


  1. 高柳一成・編:薬の安全性-その基礎知識;南山堂,2000
  2. 南山堂医学大辞典第18版;南山堂, 1998
  3. 薬科学大辞典 第2版;広川書店,1990

国は何故補償できないのか 

水曜日, 8月 15th, 2007

魍魎亭主人

台湾又は韓国、韓国又は台湾に、日本の統治時代に設置されていた癩療養所に強制入院させられていた患者が、ハンセン病補償法に基づく補償請求を棄却されたことで、棄却処分の取り消しを求めていた行政訴訟の判決が東京地裁であった。

台湾訴訟では、菅野博之裁判長が『台湾の療養所は、補償法に基づく厚生労働省告示が規定する国立療養所に該当する』と判断し、補償金の支給を認めたのに対し、韓国訴訟では、鶴岡稔彦裁判長が『日本統治下の入所者は補償対象に含まれない』として、原告の請求を棄却した。

ハンセン病補償法は、隔離政策の誤りを認め、国に賠償を命じた2001年5月の熊本地裁判決を受け、同年6月に成立した。前文にハンセン病元患者への謝罪の文言が盛り込まれている。補償金は、療養所の入所期間に応じて800万-1400万。2006年までの時限立法で、これまで3475人に423億 4600万円が支給されたとされている。

さて、今回、台湾と朝鮮の判決で、判断が相反する結果となったのは、『ハンセン病補償法』の解釈の相違によるといわれている。

『ハンセン病補償法』は、国内の療養所入所者を対象にしており、国外の療養所の入所者については対象としていない。従って法律が対象としていない者を、その法律で救済することは出来ないとするのが、韓国訴訟であり、日本の統治時代の療養所は、日本の管轄下に管理運営されていたのであるから、当然補償の対象となるとするのが台湾訴訟の判決ということのようである。

台湾にしろ朝鮮にしろ、日本統治時代は日本の意志によって療養所は運営されていたわけであり、日本と同じ隔離政策がとられていた訳である。この事実は、歴史的な事実として否定できない話であり、『ハンセン病補償法』を検討するときに当然対象として組み入れておくべきではなかったのか。

その時に同時に対応しておけば、訴訟などという手間を掛けることなく、救済されていたはずである。 入所者は既に高齢を迎えている。事実は否定できないということであれば、早急に対応すべきである。新聞報道によれば、厚生労働省は原告らの包括救済の方針を固めたということであるが、その一方で、台湾訴訟は東京高裁に控訴するとしている。なるほど理屈からいえば、外国人の救済を決めていない『ハンセン病補償法』を原告有利に解釈して、国が敗訴した裁判を敗訴のままにすることは、困るということなのであろうが、高裁で敗れ、最高裁で敗れたらどうするのか。

まあ、上級審では勝てるという確信があるということなのであろうが。

いずれにしろ日本の法律によって管理されていた時代、日本の法律によって強制的に入所させられていたというのであれば、国内の入所者と同様、救済するのは当たり前のことである。ある意味でいえば、これも過去の負の遺産を清算することの一つだということかもしれない。

片付ける気があるなら、早急に片付けてしまった方が、精神衛生にいいのではないか。

(2005.11.18.)


  1. 読売新聞,第46557号,2005.10.25.
  2. 読売新聞,第46568号,2005.11.5.

クリスタル・インテリジェンス

水曜日, 8月 15th, 2007

医薬品情報21

古泉秀夫

情報関連の言葉として新聞のコラムで『クリスタル・インテリジェンス』=『結晶性知』=『バラバラな知識を結晶のようにまとめる知性』なる言葉を見た時は、なるほどねぇと思った訳ではある。が、時間が経つにつれて、何か引っかかるものが出てきた。何時もなら習慣的にきっちりメモを取っておくのだが、今回は何気なく読み流したということで、どの新聞に載っていたのかも定かではない。

2004年12月20日(月)・21日(火)のどちらか。どっちかというと21日が怪しい。読んだ可能性のある新聞は毎日新聞、日本経済新聞。掲載のスタイルはいわゆる囲みで、誰かの著作中に『クリスタル・インテリジェンス』なる言葉が使われていたという内容だったと記憶している。

花の写真 クリスタル(crystal)という言葉の意味は「結晶、水晶」、インテリジェンス(intelligence)の意味は「知性、理知」である。それからすると『結晶性知』なる訳語は、ややピンと来ないといおうか、他に何かないのかというのが正直な思いである。

つまり『バラバラな知識』を『結晶のようにまとめる能力』という意味が、『結晶性知』からは読み取れないのではないかと思われるのである。

文書を書く場合、カタカナ語を使いたくないという思いが、殆ど病的に近いと思っている当方としては、適切に置き換えることの出来る言葉はないのかと思い迷うのである。

ただ、「この日記ではクリスタル・インテリジェンス、つまりは長いあいだの経験や学習で得てきた判断力であれこれと書いてきた。そこにはおのずから限界があると私は自覚している。自分が蓄えてきた枠内での判断にすぎないからだ。」という文脈からすれば、“情報を蒐集する技術”ではなく、自身積み上げてきた知識、蒐集した知識ということになる。

クリスタル・インテリジェンスを『バラバラな情報を蒐集し、まとめる知識(能力)』と考えると、『結晶性知』は意味不明の訳語になるが、蒐集し、蓄積した知識に基づく判断ということであれば、『結晶性知』でいいということかも知れない。

しかし、この言葉の意味が、世間一般に広く知られるようになるまでに、クリスタル・インテリジェンスが一人歩きすることは当然考えられる。何せ、『結晶性知』に比較すると、クリスタル・インテリジェンスは、意味は不明であるが数段格好がいいという、若者受けをする言葉であるということである。

行政の減量とは何か

水曜日, 8月 15th, 2007

魍魎亭主人

政府の『行政減量・効率化有識者会議』(座長・飯田 亮セコム最高顧問)が、国家公務員を5年間で5% 以上純減するため、2006年2月20日までに削減計画の提示を求めていた4省8分野(公務員の総人件費削減の15分野のうち)について、刑務所、拘置所など行刑施設とハローワークの2分野がほぼ0回答。5分野は期限までに回答できない見通しだとする報道がされていた。

8分野について農林水産省、厚生労働省、法務、国土交通省の4省に対して、削減する事業と職員数の報告を求めていたものであるとされる。

その中で、厚生労働省はハローワークについて「失業手当の給付と職業紹介は密接に関連しており、紹介事業だけの民間委託は難しい」と回答。国立高度専門医療センターの独立行政法人化は受け入れるが、社会保険庁関係は「3月中旬の社会保険庁改革法案に具体案を盛り込む」と回答を先送りする。

事業分野 定員(人)
農林水産省 農林統計 5,008
  食糧管理 7,393
  森林管理 5,264
厚生労働省 ハローワーク 12,164
  社会保険庁 17,365
  国立高度専門医療センター 5,629
国土交通省 北海道開発 6,283
法務省 行刑施設 17,645

[読売新聞,第46673号,2006.2.19.]

政府は2006年2月13日、行政改革の一環として国立がんセンターなど6機関8病院からなる国立高度専門医療センターを2010年に独立行政法人化する方針を固めた。厚生労働省は当初、難病の治療・研究や感染症対策など、不採算分野を国の政策として担っていることを理由に独法化に難色を示していたが、国が引き続き関与できる仕組みの整備や財政支援などを条件に、受け入れに転じた。

高度専門医療センターは「がんセンター」「循環器病センター」「精神・神経センター」「国際医療センター」「成育医療センター」「長寿医療センター」で構成され、所属する国家公務員(定員)は2005年度末で5629人となっている。 一般の病院と同様に治療を行っているほか、がんや難病の研究、新たな診断や治療法の開発、医師らを対象とした先端医療の研修等、多様な機能を担っている。

2005年12月に閣議決定された政府の「行政改革の重要方針」は、国家公務員を5年間で5%純減する方針を決定。これを受け、中馬行革相が1月6日の閣僚懇談会で川崎厚生労働相に対し、高度専門医療センターの独法化の検討を要請していた。だが、厚労省は、同センターについて「先端医療の研究など、採算性を度外視した分野を国が政策として行っている」等と主張。 厚労省は独立行政法人化の受け入れに当たって、[1]感染症や難病対策など国が必要と判断した政策を実行できる連携の仕組みの整備、[2]人件費の水準維持や研究施設整備のための交付金、施設整備費補助金といった財政支援の充実等を訴える方針

[読売新聞,第46668号,2006.2.14.]。

国家として国民を守る手法は、軍隊による外圧対応の防衛のみではない。発生すれば、膨大な死者が予測される新たな感染症に対して、感染防御を図るための研究と治療対応の訓練等を日常的に行うとともに、未知の感染症の汎発性流行(pandemic)に際し、水際対策や患者の隔離治療に場所を提供するとともに、専門的に対応することも国民を守ることの一つである。 卑近な例でいえば、世界保険機構(WHO)が懸命に追跡している強毒性の鳥インフルエンザウイルス (H5N1型)による感染症である。本ウイルスの感染症である鳥インフルエンザによる死者は、2003年以来全世界で103人に達したとされる。未だ死亡した鳥からの感染が主体のようであるが、人にのみ感染するのではなく、英国では猫に感染したとする話も流れている。更に死者は一部の地域に限定して発生しているわけではなく、徐々に広がりを見せている。

報告ではヒトからヒトへの感染を惹起するウイルスの変化は未だ見られていないようであるが、一方では徐々に変化しつつあるような嫌な予感がするのである。鳥インフルエンザが、世界的に蔓延するようなことがあった場合、国家の根幹に係わる死者が出る可能性が予測されている。これら人類への脅威を排除するための対策の強化は国家がやることであって、その最も相応しい施設が国直轄のナショナルセンターである。 人類は未だ癌を征服していない。国民が癌で命を失うのは国家の大きな損失であり、その癌を撲滅するための研究・治療は、国の防衛線の一つである。少なくとも国の研究・治療機関として、運営することに国民は誰も避難はしない。

今回、国直轄のナショナルセンターを国立から外し、独立行政法人化するという。国家公務員の総枠抑制のためやむを得ない処置だという。しかし、考えようによっては本省関係の人員削減-行政職I関係の削減を避けるために、医療機関を犠牲にしたと見ることもできるのである。あるいは考え過ぎだといわれるかもしれないが、国直轄でなければ不採算医療-何時起こるかも解らないことに人手は割けない。つまり独立行政法人化されれば、不採算医療はできないということなのである。

(2006.3.22.)

感染症管理の変遷

火曜日, 8月 14th, 2007

医薬品情報21

古泉秀夫

悪名高い『らい予防法』が、平成8年4月1日に施行された『らい予防法の廃止に関する法律』に基づいて廃止された。らい予防法は昭和28年法律第214号により施行され、実施されたものである。

勿論、法律が廃止になったとはいえ、永年隔離政策を執ってきた国の責任が消えるわけではなく、国立ハンセン病療養所における療養は『第二条 国は、国立ハンセン病療養所(前条の規定による廃止前のらい予防法(以下「旧法」という。)第十一条の規定により国が設置したらい療養所をいう。以下同じ。)において、この法律の施行の際現に国立ハンセン病療養所に入所している者であって、引き続き入所するもの(第四条において「入所者」という。)に対して、必要な療養を行うものとする。』ということで、引き続き国が運営する国立療養所で療養を継続することになっている。

感染症に関連する法律の改正で、もう一つ重要なものが、『結核予防法』の廃止である。勿論、結核予防法が単純に消えてなくなったというわけではなく、平成18年12月8日法律第106号で廃止されたが、同時に『感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114 号)』に引き継がれ平成19年4月1日から施行された。

ところでハンセン病は、感染力の強い菌ではなく、有効な薬物療法もあるため、通常の対応が可能で、世間の人の頭の中に刷り込まれているほどやっかいな病ではない。

従って、『らい予防法』が廃止されたことに特に問題はないが、結核は、そういうわけにはいかない事情があり、法律の廃止には反対意見が見られたようである。

世界保健機関(WHO)は、2007年3月22日に結核に関する年次報告を発表したとされるが、それによると多くの抗結核薬が効かず、治療が極めて困難な新型結核『超薬剤耐性結核』(Extensive or Extreme Drug-Resistant Tuberculosis:XDR-TB)の感染確認が、日本を含む世界35カ国にまで拡大し、感染症の国際対策にとって「深刻な脅威」となる恐れがあるとされる。

新型結核は、主要8カ国(G8)を含む世界各地に拡大。報告が集中しているのは旧ソ連圏と欧州で、亜細亜では日本、韓国、中国、泰国、バングラデシュで感染が報告されている。『XDR-TB』は、カナマイシン等の「第二次選択薬」と呼ばれる抗結核薬が効かない結核菌で、感染者は全結核患者の約2%に達すると見られている。

ついこの間まで、結核は近いうちに地球上から消滅するのではないかといわれていたが、しぶとく生き残っているばかりでなく、ヒトの唯一無二の対抗策である抗生物質が無効ということになると、ヒトの対抗策は無くなってしまう。

つまり抗生物質はあっても、効果がなければないと同じで、結核に感染した患者は、栄養補給をしつつ、安静に過ごすなどという古典的治療法に本卦還りすることになりかねない。

一方、平成14年11月13日付で『結核予防法施行令』の一部が改正され、平成15年4月1日から『小・中学校におけるツベルクリン反応検査は廃止』されている。理由として『平成7年にWHOが、BCGの複数回接種の有効性に関して疑問視していることや、小・中学校でのツベルクリン反応検査による結核患者の発見も殆ど無く、また強陽性患者が出たとしても、過去にBCGの接種を受けていた結果、あるいは再ツベルクリン検査などで、繰返し接種した場合の影響等で、結核感染の判断をすることが困難になる』等が挙げられている。

更に、平成16年6月15日付で『改正結核予防法』が成立し、平成17年4月1日から施行された。ほぼ半世紀ぶりの結核予防法の改正だといわれている。改正のポイントは、

  1. ツベルクリン反応検査を廃止して直接BCG接種を実施、また定期健康診断や定期外健康診断の対象者・方法の見直し
  2. 保健所・主治医によるDOTS(ドッツ-直接服薬確認療法)の実施
  3. 国・地方公共団体の責務の規定
  4. 国・都道府県の結核対策に係わる計画の策定
  5. 結核検診協議会の見直し

の5点。

  • 平成18年12月8日:法律第106号『感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律等の一部を改正する法律』により、結核は『二類感染症』格付けされた。
  • 平成19年3月9日:政令第44号『感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律等の一部を改正する法律の施行に伴う関係政令の整備等に関する政令』により『結核予防法施行令』は廃止された。

一見すると、我が国の結核の状況は新しい時代を迎えたように見えるが、WHOの報告を見るまでもなく、依然として結核は我が国における重要な感染症となっている。また先進国の上位階層の罹患率とは差があり、我が国は中蔓延国に分類されている。更に患者の高齢化、都市部への集中、重症発病の増加など、結核感染の問題は多様化しているといえる。我が国の結核は、全国的に広く蔓延していた時代から高齢者等、都市部を中心に患者が集中する状況を迎えている。新たに結核に感染する患者は1年間に29,000人程度で、そのうち死亡者は2,300人程度に上っている。

そこに持ってきて『超薬剤耐性結核』が蔓延することになれば、再度結核は恐るべき伝染病に格上げされることになる。

  [2007.4.3.]


  1. 読売新聞,第47069号,2007.3.23.
  2. http://www.jata.or.jp/rit/rj/kjoushi.htm,2007.3.28.

患者持参薬とは何か?

火曜日, 8月 14th, 2007

医薬品情報21

古泉秀夫

『患者持参薬』なる言葉が、病院勤務薬剤師の世界で走り回っているが、誰も『患者様持参薬』とはいわないところがおもしろい。

病院薬剤師の書く文書の中でも『患者様』なる語が頻繁に飛び交っている実態があるが、何故これだけは『患者様持参薬』ではなく、『患者持参薬』なのか等というと、嫌みになるのでそれは置いておく。但し、『患者持参薬』なる言葉、世間一般には、耳慣れない言葉で、何をいっているのか分からないということになるのかもしれないが、要するに“何等かの治療を受けていた患者が、医師により入院が必要と判断されたときに、それまで服んでいた薬、使っていた薬を、洗いざらい病院に持ち込んできたもの”をいうのである。

通院中の患者が、通院中の病院に入院するのであれば、同一医師が診療に係わるため何等問題になることはないが、入院先が異なる等ということになると、若干厄介なことになる。 この場合問題になるのは、

  1. 入院する病院が通院中の病院と異なることがある。
  2. 持参した薬が薬袋から出されて一まとめにされているため、個々の薬の服用方法が不明である。
  3. 何時処方されたか分からない薬が入っている。 等ということである。

[1]の場合、当然主治医が代わるわけで、入院の決定をしたということは、患者の容態が変化し、その変化した状況に合わせて処方せんが書かれる。その意味では前医の処方薬を使用する必要はないわけで、患者持参薬は退院時にお持ち帰りいただくということになる。

しかし、時には「前医でどの様な薬を使用していたか知りたい」という医師の依頼を受けて、薬剤師が持参薬を弁別して、患者持参薬の薬品名を調べ、院内採用薬の該当商品名と対比して看護師に渡すが、これはいわゆる調剤とは別の作業である。患者持参薬を服用させるかどうかは、あくまで医師の判断であり、医師が服用させると判断した場合には、服薬介助をする看護師が対応する。

[2]の場合、自分が処方した薬が分からない等というと首をひねるかもしれないが、病院では業務は細分化して分業が成立しているため、多くの医師は自分が処方する薬の現物を見たことがないというのが実態である。従って薬剤部に持ち込まれた薬を薬剤師が鑑別して、薬品名、含有量等を書き出し、薬袋に入れ直して病棟に渡す。しかし、最近は薬の名前を患者に知らせないため、薬品名の印字された包装の耳を切り取るなどということはしないため、薬のPTP包装を見れば誰にでも分かるが、薬ごとに用法・用量を明確に記載しておかないと、患者の誤用に繋がる恐れがあるため、薬剤部に持ち込まれることが多い。

[3]の場合は、薬を保存して置いた環境(温度・湿度・光等)が不明であり、更には有効期限も不明である。その様な薬はいわゆる不良品であって、服む訳にはいかない。しかし、所有権は持参した患者にあり、許可なく勝手に捨てるわけにもいかない。原則的には『廃棄すべし』の意見を付けて、患者側に戻すが、廃棄する方法がないような場合には、薬剤部で預かって、他の薬と一緒に廃棄業者に依頼する。

以上の患者持参薬に対応する行為は、何れも処方せん無しでの仕事であり、どちらかといえば、調剤行為というよりは、薬剤師の善意による便益の提供である。ところで最近になって、『患者持参薬』が話題を賑わせているのはどういう訳であろうか。理由として『診断群分類支払い方式(DPC: Diagnosis Procedure Combination)*』の導入を理由に挙げる意見が見られる。DPCとは、従来の出来高払い方式に対し、一疾患ごとに注射・投薬、検査、レントゲンなど多くの診療内容の費用をまとめて評価する包括計算方式をいい、その他の出来高払い方式(内視鏡検査・手術・麻酔)と組合わせて計算する方法である。

*Diagnosis(診断)・Procedure(手技)・Combination(組合わせ) この方式で『患者持参薬』が問題になるのは、薬を処方しても一定額以上は請求できないということである。

突然の後発医薬品の導入騒ぎと同列の考え方で、患者が入院時に持って来た薬を使用すれば、その分病院の減収を避けることが出来るということである。

しかし、不思議なのは、今までの治療が上手くなくて入院したのだと考えると、今まで服用していた薬がそのまま使えるわけがないと思われるがどうなのか。

更に院内採用薬に含まれていない薬が使用されていた場合、その薬を患者に使用した場合一時的な使用で、継続的な使用は出来ないが、その場合、その薬を臨時購入するとでもいうのであろうか。院内採用薬は、薬剤委員会の審議を経て購入を決定する。

購入薬については施設としての責任を持って購入し、患者に使用するのである。

他院で使用していた薬を、何の評価もなしに今まで服用していたという理由だけで、継続服用させることに何の問題もないのか。まして医師としての使用経験のない薬の場合、確信を持って使用できるのかどうか。

更にその薬は、医師が新に処方を書いて、薬剤師が調剤して患者に服用させるのかどうか。患者の個人的な所有物である『患者持参薬』を流用するに際し、患者の了解をどう取っているのか。『患者持参薬』の流用については、解決しなければならない問題が多分にあると考えられる。包括方式の導入に伴って、薬品費の軽減を図るために『患者持参薬』を使用する前に、総体として薬の種類を減少させる方策を講じることが先ではないかと思うが、どうなんだろう。

(2006.9.29.)

改正薬事法の意味 

火曜日, 8月 14th, 2007

鬼城竜生

 平成17年9月18日(日)大学の同窓会城北支部の研修会が豊島区立勤福で開催された。本来の所属支部ではないが、御案内を戴いたのと演者が薬学部卒業者でありながら弁護士という経歴の持ち主、更に演題が『個人情報保護法と薬剤師』ということで参加をさせていただくことにした。

その時、枕に振られたのが、新薬事法の三位一体論で、薬事法は医薬品のEffect (効果)薬事法基本図.・Quality(品質)・Safety(安全)の3種を保証するための法律で ある。しかし、旧法ではE・Qに対する比重が大き く、Sは疎 略に扱われていたが、今回の改正によって、少なくともE・Qとの対比では対等以上の比率になったと考えられるというも のであった。

薬事法は平成14年7月に大幅に改正された法律が公布され、 平成17年4月より全面的に施行されることになった。それに伴 い多くの関連省令や告示が新たに出されたが、今回の改正の最 大の特徴は、医薬品の承認・許可制度の抜本的な見直しと、それに伴う「品質管理基準(GQP)及び製造販売後安全管理基準(GVP)」省令の設定等がされたことである。

つまり今回の薬事法改正は、一般的に禁止された製造販売業を解除する際の特定要件として、薬事法第12条の2各号『品質管理基準(GQP)及 び製造販売後安全管理基準(GVP)』を定め、この基準に適合する者に対して製造販売業許可を 与える制度なったといわれており、従来より一層厳密な安全管理が求められることになったということのようである。

新旧法の概略を対照すると下記の通りである。

旧法 個別医薬品について、自ら製 造所を保有して製品化することを前提とした

『製造(輸入)承認』

*自ら保有する製造所において製造するとともに、卸売り販売業に販売する行為により構成される製造業(製薬企業)

『元売』

『市販後調査安全対策』

薬事 法□平成十七年四月一日 施行 個別医薬品について、製造所 の保有を前提としない許可体系に変更し、製薬企業を『製造行為』と『元売行為(製品を出荷・上市する行為)に分離することで、元売業の市販後調査安全対策を一層重視することになった。

『製造販売承認』

必ずしも自らその医薬品を製造・輸入する必要はない。

『製造販売』

『製造販売後安全管理』

新法
安全対策については遵守事項

「医薬品の市販後調査の基準(GPMSP(Good Post-marketing Surveillance Praction):厚生省令第10号)」→製造業者等の遵守事項(旧法第16条)

  処方せん医薬品等の製造販売 元における安全性確保をより確実なものにするため、製造販売業者における適正使用情報の収集、検討及び安全確保措置の実施等の市販後調査安全対策に関する部分として

『医薬品及び医療機器の製造販売後安全管理の基準(GVP:Good Vigilance Practice)』

と製造販売業者が再審査・再評価資料の収集・作成のために実施する試験・調査に係わる部分として

『再審査・再評価のための試験・調査に関する基準(GPSP:Good Postmarketig Study Practice)』

に分離された。

改正薬事法のGood Vigilance Practiceの『Vigilance』は、『警戒、用心、寝ずの番』等の意味であり、従来の『市販後調 査の基準』に比べると、今回の『製造販売後安全管理の 基準』は、明らかに『調査』から『監視』の方向に大きく踏み込んだということができる。

薬事法は、薬を管理するために薬剤師が主体的に運用する法律である。特に『安全性管理』は、薬剤師が臨床現場において主体的に係わっていかなければならない分野であるといえる。医師は患者の治療に際して、薬の効果を見がちであり、副作用については等閑視しがちである。従って、副作用については、薬剤師が全面的に係わり、監視を強化するとともに、常に新しい情報を収集するとともに、医師に伝達していかなければならない。

薬剤師が医療をになう者として法的に明記された。医療に貢献する姿勢として、GVPへの関与を強化しなければならない。

[2005.10.2.]


  1. 財団法人日本公定書協会・編:薬事衛生六法;薬事日報社,2005
  2. 三輪亮寿:法律実務講座-「個人情報保護法と薬剤師」;昭薬:東京城北支部,2005.9.18.資料

『監修料という名の税金収奪』

火曜日, 8月 14th, 2007

魍魎亭主人

厚生労働省と社会保険庁の職員が、補助金で製作された冊子などの監修料を得ていた問題で、職員らに流れた監修料は過去5年間で総額7億 5000万円に上がることが22日両省庁の内部調査で判明した。厚生労働省は同日、厚労省審議官以下の幹部職員計数百人に給与の一部を返納させる方針を決定。監修料の受領は法律には違反しないため、職員の処分は行わないが、幹部職員の監督責任を問う。一人当たりの返納額は最高で数百万円、総額1億3000 万円以上になると見られる。 厚労省によると、1999年度から2003年度までの5年間に監修料を受け取っていたのは、同省国民健康保険課や社会保険庁などの係長以下の職員。国家公務員倫理法で副収入の届け出が義務づけられた幹部職員は含まれておらず、殆どのケースでは、それぞれ確定申告も適正に行われていた。しかし、補助金として支出されていた巨額の国費の一部が、結果として職員の私的収入として還流していたことなどについて、批判は避けられないと判断。幹部職員が監督責任を負うことで決着を図ることにした [読売新聞,第46190号,2004.10.22.]。

何ともはや不思議なことは、国の補助金で作成される冊子と称するものは、国の政策や実施計画の内容をより国民に分かり易く解説、あるいは宣伝するものではないのか。

もしそうであれば、役人としての本来業務の範囲内の業務であり、監修料なるものをいちいちとる必要はないはずである。本来、自分達が予算の枠内で冊子の印刷・発行をするべきものを、補助金の瞑目で特定の民間会社に流し、その上前を弾くというやり方は、以ての外といわざるを得ない。

監修料の受領は法律に違反しないというが、高額な編集・印刷料は、公開入札で決めるべきを、随契で特定の業者に集中したやり方は、当然変更を命じるべきであって、それを放置していたというのは国民に対する裏切りである。更に一々監修料なるものを業者に支払わせるなどというのは、自分達の仕事をあくまで他所様の仕事に見せかけて税金の上前をかすめ取る行為以外の何ものでもない。

更に不思議なことは、総額7億5000万円のうち返納額を1億3000万円以上に決めたというが、何を基準にして返戻額を決めたのか。7億 5000万円のうち、1億3000万円には問題があり、6億2000万には問題がないと決めたのはどの様な理由によるものか、お伺いしたいところである。あらゆる手を使って、税金を掠め取ろうとする根性は、徹底した処分と人事刷新しかない。

その際、何処かに天下り先を見つけて、行き先の世話をしたのでは、またその行き先に配慮しなければなくなる。定年まで勤務せず、定年年齢前に勧奨による退職があるから行き先を探す。引き受けた民間会社は、おこぼれを期待して役所に食い込もうとする。この関連の環を切断するためには、勧奨を中止して、定年年齢まで勤務する。しかし、その後は一切の紹介はしないという仕組みを作るより方法はないと思うがどうか。

自分達の扱っている金は、国民の金であるという認識を持つことが、役人にとっての全ての出発点でなければならないはずである。

(2004.11.24.)

「かかりつけ薬局」は得られるか

火曜日, 8月 14th, 2007

医薬品情報21

古泉秀夫

「市のがん検診で新しくできた病院の産婦人科を受診。診察室は二重ドアになっており、周りの人に話が聞こえないよう、配慮されていて、安心して受診できたという。その後、院外処方を持参した調剤薬局では、薬剤師が若い女性に、処方した薬の内容を説明し始め「前回は○○という病気でしたよね?。痛みはひどいのですか?」などと尋ねているのが、聞こえてきました。子供の薬を取りに来た男性は気まずいのか、薬剤師とその女性から背を向けていました。

順番待ちをしていた他の人達も、その女性の病名と症状を知ってしまいました。薬剤師は女性でしたが、同じ女性として思いやりの気持をもって対応してほしいと思いました。 別の調剤薬局でも、今回と同じように、薬剤師と患者のやり取りが筒抜けでした。いくら病院の対応がよくても、調剤薬局で病気の内容があからさまになってしまうのでは、と不安になりました。薬局でも患者のプライバシーを大切にしてほしいと思います。」

以上は読売新聞(第46182号,2004.10.14.)の読者投書欄“気流”に掲載されていた内容である。

ところで次の話は、ある調剤薬局での目撃談であるが、調剤薬局の薬剤師の対応のまずさ、薬に対する知識のなさを考えると、厚生労働省が期待するかかりつけ薬局などというのは当面望むべくもないと思われてしまう。

薬剤師『今日の処方せんには下剤が書いてありませんが、下剤は要らないのですか』と大声で患者に質問している。患者は薬剤師の言葉の意味が一瞬理解できなかったのか、沈黙を守っている。 薬剤師『下剤の替わりに今日は乳酸菌製剤が書いてあるんですけど、下剤は必要なんですよね。先生にいって書いてもらいますか』。なお、患者沈黙。

まず、患者の病状に直接触れる様な内容を、他の患者のいる前で、大声で叫ぶというのは、無神経の謗りを免れない。何のつもりか知らないが、もし、私は良く気の付くできる薬剤師なんてことを吹聴しよう等と考えての行動であるとすれば最悪である。

処方された他の薬がなんの薬であるのか分からないので、緩下剤が処方された目的は推測するしかないが、薬の副作用から来る便秘の解消か、あるいは大腸の機能低下による便秘の解消目的ということであろうか。

いずれにしろ緩下剤は、長期にわたって服用すべき薬ではなく、自然排便を目指すための一時的な処置でしかない。一端緩下剤を処方したからといって、未来永劫、緩下剤を出し続けなければならないということにはならない。まして乳酸菌製剤が処方されているとすれば、緩下剤を処方した当初の目的は一応果たしたと考えた医師が、腸内細菌叢を調整することで、なるべく自然排便に近いものを考え、緩下剤の替わりに乳酸菌製剤を処方したと考えられることから、決して文句を言う筋合いのものではない。

少なくとも薬剤師は、医師の処方からそのへんの意図は読み取るべきで、もし患者に声をかけるとすれば、『今日は処方が変更されていますが、先生からお聞きですね』位のところである。第一、処方内容は、患者を診察した医師が決定するものであって、患者が欲しがったからといって、病状に合わない薬を、無闇に処方せんに書き加えるなどということはあり得ない。

“気流”の読者投書ではないが、薬局の設備を整備しなければ、『かかりつけ薬局』を選定することは困難である。少なくとも、『相談専用の個室あるいは窓口』の設置は絶対に必要であり、患者の私的権利を守るための設備を整備することを忘れてもらっては困るということである。更に薬局の薬剤師は、薬剤師の資格を持っているから薬に詳しいなどという思い上がりは捨て、臨床的な薬の使用についての知識を十分に身につけなければならない。中途半端な知識で、服薬指導などを行い、もし誤った情報を伝達し、患者に事故が発生した場合、その責任は重いということを理解しておかなければならない。

(2004.11.4.)