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クラーレ(curare)の毒性

金曜日, 8月 17th, 2007
対象物 クラーレ(curare)
成分 クラーレアルカロイド(curare alkaloid)としてd-tubocurarine、d-chondocurine、d-isocond-odenrine等
一般的性状 南米の原住民が矢毒に用いたツヅラフジ科、フジウツギ科植物の樹皮、材の水製エキス。 tubocurarine等のalkaloidを主成分とし、骨格筋終板の選択的遮断作用、骨格筋弛緩作用及び麻痺作用を有する。
クラーレは部族語で“鳥を殺す”という意味で、貯蔵容器によって分類され、竹 筒に入れられたものをツボクラーレ(アマゾン川流域)、瓢箪に入れられたものをカラバシュクラーレ(オリノコ川流域)及び土器に入れられたものをポットクラーレ(ギアナ地方)という。基本的にはツヅラフジ科、フジウツギ科の蔓性植物群から作られる。
別名:クラリン(curarine)、ツバリン(tubarine)。運動神経の神経線維は、脊髄を出て末梢の骨格筋を支配するが、この神経線維の 末端部からはアセチルコリンが分泌され骨格筋を収縮させる。クラーレの成分はアセチルコリンの分子が二つ結合したような大きな分子で、アセチルコリンが作用する骨格筋の受容体に、アセチルコリンに変わって結合し、アセチルコリンの作用を抑制する。そのため運動神経の作用が失われ、骨格筋は動かなくなる。またクラーレは分子が大きいので血液脳関門を通過しない。
コンドデンドロン・トメントスム(Cbondodendron tomentosum):ツヅラフジ科。南米のペルーやブラジル地方に分布する蔓性の低木。クラーレのalka-loid成分であるツボクラリンは、直径10cm以上もある丈夫そうな茎から採られ、竹筒クラーレの主原料にされる。
ストリキノス・トキシフェラ(Strychnos toxifera):マチン科。ベネズエラのオリノコ川流域からギアナにかけて分布。花や茎全体に細かい産毛が密生している。蔓性で、毒成分は樹皮だけにある。薬理作用はコンドデンドロン属とやや異なり、瓢箪クラーレの主原料にされる。
tubocurarineとして
作用:神経筋肉遮断薬。副交感神経遮断性
吸収・排泄:急速に注射部位から吸収され、また恐らく舌下粘膜から吸収される。大用量が投与されない限り、経口投与では不活性である。その理由は不明。体組織に広く分布する。恐らく肝臓で分解され、腎臓から排泄される。用量の約1/3が最初の2-3時間で排泄される。作用は静注3-5時間後に最高に達し、
約20分間継続する。
毒性 ク ラーレの毒成分d-tubocurarineの最小致死量は0.3mgである。成人の致死量は約50mg。
症状 クラーレを射込まれた動物は、痛みのような目立った症状は示さず、筋肉が弛緩して動かなくなり、呼吸 麻痺で死ぬ。これはクラーレの作用が骨を動かす骨格筋を支配している運動神経の活動だけを抑えるため、骨格筋が麻痺するからである。クラーレは消化管からは殆ど吸収されず、クラーレで倒した動物を直ちに摂食しても中毒しない。
顔と首の紅潮、疲労、随意筋の脱力と麻痺:これは眼にはじまり、顔、頸、手足 及び腹部に進行し、最後に肋間筋と横隔膜に至る。全呼吸麻痺が起こるには注射後7-10分を要する。血圧は低下し、頻脈が起こる。大用量は中枢神経を刺激し、全身痙攣を起こす。
処置 [1] 作用が消失するまで呼吸の維持。
[2]メチル硫酸ネオスチグミン5mg及びアトロピン1mgの静注。
[3]酸素吸入と人工呼吸。
[4]膀胱導管法。
フィゾスチグミン及びエフェドリンはクラーレの拮抗体である。
事例 「あ、 それは?」
「雪の道でひろったんだが、壺の様子が異国風なので、もしやと思って」
二の字二の字の下駄の女に逃げられたが、その雪の上におちていた小壺が、なんとなく異国帰りの六兵衛につながりがあるように銀二郎には想像されてならなかった。
「この壺の中には、クラレという毒液が入っています。竹の筒にはいっているのを竹クラレ、焼き物の壺にはいっているのを壺クラレといって、セルモス島では
猛獣を捕るときに用いております。
セルモスの土人は、猛獣狩りをするとき、この壺のなかの液をとがった矢のさきへ少量ぬって矢を放つ。矢が猛獣の皮膚にささると、たちまち猛獣は運動神経を
やられ倒れてしまう。そして一時間か二時間のうちに毒が消えて猛獣はもとへもどるが、そのときには猛獣はすでに檻のなかという訳」?六兵衛は説明をし、
「このクラレは、口から飲んでもなんの害もありません。が、肌からはいるとほんの少しでもたちまちやられてしまうという不思議なくすりで」 [陣出達朗:投げ縄お銀捕物帖-昆崙白魔;春陽文庫,1990]
備考 投げ縄お銀捕物帖に登場する奉行は“筒井和泉守”とされているが、それは“筒井和泉守改憲”のことであると考えられるので、文政4年(1821年)から天保
12年(1841年)まで、南町奉行を務めた方のことであると考えられる。ところで矢毒としてのクラーレがヨーロッパに伝わったのはスペインが南米を侵略
した1540年頃だったとされるが、その当時の伝承内容は甚だ曖昧な内容であったようである。1815年にロンドンで獣医・外科医・冒険家(チャールズ・ウォータートン)の3人の男が驢馬を用いてクラーレの作用について検討し、クラーレの作用の一部について科学的な光を当てたとする報告がされているが、1821年当時既に日本に輸入されていたとすれば、甚だ凄い話しになるが、何に使おうと思って輸入したのか、それを考えると、上手く作った話かなという気もしないでもない。最も捕物帖はお話であり、あまり毒の輸入にこだわることはないといえば、ない話しである。
文献 1) 薬科学大辞典 第2版;広川書店,1990
2)大木幸介:毒物雑学事典-ヘビ毒から発ガン物質まで;講談社ブルーバックス,19993)植松 黎:毒草の誘惑;講談社,1997
4)植松 黎:毒草を食べてみた;文春新書,2000
5)白川 充・共訳:薬物中毒必携 第2版;医歯薬出版株式会社,1989
調査者 古泉秀夫 記入日 2004.8.29.