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『合法ドラッグ』って何?-この不思議な命名

水曜日, 8月 15th, 2007

鬼城竜生

「『合法ドラッグ』コカインと勘違い 3少年、最長12日拘束 警視庁」という記事が、読売新聞(第45932号、2004.2.7.)に掲載されていた。

コカインを所持していた疑いで逮捕した高校3年生ら少年3人が、実際に所持していたのは『合法ドラッグ』だったとして、警視庁は6日、3人を保釈したと発表した。3人は最長12日間、不当に拘束されていた。警視庁科学捜査研究所で本鑑定したところ『合法ドラッグ』だったことが判明、その日のうちに3人を保釈したというものである。

新聞の論調は、どちらかといえば、誤認逮捕に異議を唱えているやに見受けられたが、一体、報道関係者は『合法ドラッグ』なる言葉を、どの様な立場でお使いになっているのか、若干の疑念を持ったところである。

ヒトが服用することを目的とする薬物で、合法的といえる薬物は、認知された生薬、あるいは厚生労働大臣の製造承認を得たOTC薬、医師の指示書・処方せんにより手に入れることの出来る医療用医薬品であり、それ以外の、ヒトが飲むことを目的とする薬物は、少なくとも薬事法違反-未承認薬の販売に相当するのではないか。

現在までに『合法ドラッグ』としてインターネットを使った裏市場で流通していた薬物の多くは、次々に麻薬及び向精神薬取締法の規制を受けることになり、まだ、残っている一部の薬物も、法律の枠を被せるのが遅れているだけで、薬物の構造や作用は『脱法ドラッグ』と位置付けられる薬物群に含まれるものである。

明らかに裏市場を構成する薬物を『合法ドラッグ』として報道することは、その薬物が免罪符を与えられたもの、販売等の行為に、免罪符が与えられたものとの誤解を与えかねないということである。

『合法ドラッグ』と呼ばれる薬物は、どの法律に照らして『合法』であると判断されるのか。『法律で規制されていないから所持が合法』なのではなく、『法律で規制されていないから所持が非合法』とする発想こそが、この手の薬物の流通を阻止するために、最も重要なのことではないのか。

第一今回の少年たちは、何の目的で訳の分からない薬物を所持していたのか。どう考えても、何の目的も無しに、薬物を所持していたとは考えられない。何等かの影響があることを、期待して所持していたはずである。

その所持の意図が、他の『脱法ドラッグ』同様、全身が軽やかになり、頭が冴え、感覚が鋭敏になるなどの麻薬的効果を期待したものであれば、『合法ドラッグ』の所持などという同情的な報道はやめなければならない。

あくまで正当な経路に乗って流通していない薬物は、『脱法ドラッグ』であり、その所持・販売・使用等について厳しく取り締まる姿勢を見せない限り、国の薬物汚染は改善されない。

実際問題として『脱法ドラッグ』といわれる薬物を合成する化学の専門家が、地球上に存在するのかどうか知らないが、明らかに同一系統の化合物を系統立てて修飾し、新しい化合物を創製しているとしか思えない状況にあり、法に基づく規制措置が追いついていないというのが現状なのである。追いつかない法規制がされていないから『合法ドラッグ』であるという解釈は、少なくとも報道機関が取るべき立場ではない。本来持つべきではない『魔の薬』であり、『脱法ドラッグ』という名称こそが相応しいのではないか。

[2004.2.8.記載]

国立医療を考える[2]

水曜日, 8月 15th, 2007

4.薬剤業務に対する認識

薬剤師の本業は、あくまで医薬品の管理である。特に薬剤部科長の行うべき薬品管理は、単に薬局内という狭い範囲に限定したものではなく、病院全体に権限が及ぶ薬品管理がその主務でなければならない。

国立医療機関のみならず、現状の医療機関において、薬剤部科長にそこまでの権限を明確に委任している施設がどの程度あるのか解らないが、国立医療機関は率先してその点を明確にすべきである。

ただし、薬剤師が病棟等における薬品管理にまで、目配りをすることになれば、ある意味では、医師・看護婦にとって窮屈な状況が派生する。しかし、管理の徹底を図るということは、薬の使用の基準作りをすることであり、診療の妨害にならない限り医師といえどもその基準に従わなければ意味がない。

病棟薬品管理、外来診療室、手術室、放射線診断・治療棟等、医薬品の保管されている部署には、定期的な薬剤師の巡回と管理の徹底を図ることが必要である。管理の徹底はかることで、報告されている医療事故の幾つかは、間違いなく避けられたはずである。

薬品管理の一部として物品管理、情報管理があり、更に薬剤師の重要な業務として、患者の安全に直接関わる調剤業務がある。また、循環器センターで起きた臨床工学士による薬品調製のミスも、薬剤部の製剤室業務が確立していれば、起こり得なかった事故だといえる。

これらの薬剤師業務が、施設の現金収入に直ちに結びつかないとしても、病院にとって重要な業務であることを理解しなければならない。

施設として、最も医療事故に結びつきやすい薬品管理の徹底を、院内全体として薬剤師が気配りをすることで、極力防止できたとすれば、『患者の命を守る』という一点からしても、病院にとって大きな収益を上げるのと同様な効果を果たしたことになるはずである。

いつの間にか、医療現場における職員の一挙手一頭足に、幾らの稼ぎがあるのかの論議が優先されるようになってきたが、患者の安全管理が最優先されるべきであり、事故を未然に防ぐシステムの運営管理は、現状の保険制度のなかでは一銭にもならない仕事ではあるが、利益優先論のために埋没させてはならない業務である。

現在、病院勤務薬剤師の病棟での『服薬指導業務』の実践が推奨されている。職能団体を始め、厚生省も音頭を取っているようであるが、国立医療機関における薬剤師の配置人員は、院外処方を出したからといって、即『服薬指導』に邁進するほど配置されてはいない。

まして国立療養所は、外来はやらないことが前提になっており、もともと外来用の定員配置はされていない。

国民の目からすれば、国立病院も療養所も同一の医療機関である。外来患者を一人診、二人診しているうちに外来が増加し、病院並の外来患者を抱えている施設でも、療養所勘定である限り外来用の職員配置はしてこなかったはずである。

これらの背景分析なしに、一律に病棟での『服薬指導業務』を推奨されたとしても実行は困難なのである。実行困難であるから実行しない、実行を迫る方は『情勢認識が甘い、薬剤師のおかれた環境の厳しさに目を向けないから実施しないのだ』ということから『業務命令』等と恫喝的な対応を取ろうとする。21世紀を目前にして未だに『業務命令』が金科玉条であるとしているのは、悪代官にも至らない小役人の発想である。

一方、服薬指導に病棟に出向く薬剤師は、何故、同時に病棟での薬品管理に目を向けないのか、甚だ不思議である。病棟の医薬品管理も薬剤師の責任であるということが、明確にされていないための無関心さなのか、『服薬指導』は高邁な仕事であるが、『薬品管理』は低級な仕事であり、薬剤師の本務ではないと考えているのか。

まさか『薬品管理』業務については学んでいないから知らないなぞというのではないと思うが、その点について、先輩諸氏はどう指導されているのであろうか。

患者側からすれば薬剤師は本来業務で十分な力を発揮し、医薬品に係わる医療事故を防止する方策を確立した上で、直接的な患者サービス-服薬指導に力を発揮して欲しいと期待しているはずである。

厚生省も服薬指導の実施による経済的な収益性を追撃する前に、配置人員の少ない薬剤師数であることを理解し、本来業務を十分に行い、施設全体の薬品管理の徹底がされているか否かの指導をこそ強化すべきである。

本来業務を縮小しなければ、実行が難しい病棟での服薬指導を推進することによって、目先の利益を追求するに急なあまり、薬剤に起因する医療事故が発生した場合、『服薬指導業務』の推進者は責任を取るのか。

それともそれはあくまで現場の問題だとしてお逃げになるのか。経営改善も結構であるが、患者の存在を無視した経営改善、患者の安全を無視した経営改善は、医療機関としてとるべき方策ではないといえる。

5.組織としての責任体制確立

まず何よりも組織運営方針の明確化が必要である。

大きな組織になればなるほど、組織の末端にいる職員は組織構成員として無視される。しかし、どの様な立場にいる組織構成員であれ、構成する組織の一員であるという意識を常に喚起することが必要なのである。

その為には、組織の運営方針を明確にし、常に検証することが必要である。更に何よりも重要なことは、『解りやすいこと』であり、示した方針の『軸がぶれないこと』である。管理者の示す方針が頻繁に変更される、あるいは何時とは知れず忘れ去られているのでは、組織の意識は向上しない。

また、各人の職務評価は常に公平であり、当人が納得のいくものでなければならない。また、職場の同僚が見ても、その正当性が評価されるものでなければならないのである。また、仕事を進めていく上で、各人の持つ特性を理解し、職員全体を同一視しないことである。適材適所の原則は、組織運営上忘れてはならない配慮である。

また、重要なポイントとして、『職場・労働環境の改善』を忘れてはならない。職員に要求することだけが急で、職場環境や労働条件の改善には目も向けないでは、職場に不満が残り職員の労働意欲は低下する。

例えば救急センターを持つ国立医療機関では、当直する薬剤師等『医療職二』の勤務時間は異常に長くなっていることにお気づきなのであろうか。

朝8時30分から仕事を始め17 時までが1日の仕事である。17時から当直業務に就き翌朝8時30分まで、更に8時30分から17時まで約32時間の連続勤務である。夜間は仮眠が取れるのではと思われているのかも知れないが、救急センターでは一睡もせずに翌日も8時間労働を強いられるという過酷な勤務である。

このような勤務状態で翌日調剤等の通常業務を行い、緊張を維持して仕事を間違えるなという方に無理がある。職種によっては、翌日、半年休を割り振っているところもあると聞くが、本来の年休の取り方ではなく、上司の命令で年休を取っているというのでは、本来の年休の趣旨から外れているといわざるを得ない。

高邁な施設運営の方針を示されたとしても、一方でこのような労働環境が放置されているとすれば、管理者に対する信頼感は低下する。

6.スタッフとライン制の確立

全ての人間が、盲腸や脱腸になるわけではない。同様に国立医療機関に勤務する職員の全てが、『長』になりたいと思っているわけではないはずである。一方、鶏頭となるも牛尾になるなかれの精神で、施設の大小には関わりなく、『長』を目指す人間もいるはずである。

しかし、全ての人間が役職を希望するわけではなく、業務の専門性を追求したいという思いのヒトもいるはずである。それぞれの志望に見合った人事政策を取ることが、専門職能としての技術力を高める上で必要であり、国立医療機関の技術レベルを維持する上でも必要だといえる。

スタッフとして専門性を追求する人材も、ラインとして施設運営に興味を持つものも、同じ人事政策のなかで一定期間毎に転勤をさせる等の人事政策の見直しは是非とも行うべきである。硬直化した人事政策を行う限り、国立医療機関の将来は、人材の面で立ち腐れしかねないことに気付くべきである。

[2000.8.15.]

国立医療を考える[1]

水曜日, 8月 15th, 2007

1.組織は生き物である

組織は個人の集合体である。個人の集合体である以上、そこに個性が生まれ、自己主張が生ずる。しかし、組織である以上、個人の個性や主張を全て容認することはできないため、規則を定め、組織として個人の権利を規制し、組織としての方向性を示そうとする。

しかし、基本はあくまで個人であり、組織の活性化を図るためには、組織に属する各個人が、その組織の運営方針、組織運営の思想性を理解することが必要である。組織の活性化を図るためには、属する個人の一人一人が理解できる運営方針の明確化を図ることが重要であり、更に各個人の職務評価は、適切な評価-管理者や中間職制の恣意的な評価という誤解を招くことのない、第三者の評価に堪えられる評価でなければならない。

組織に属する各個人の労働意欲の低下は、組織の活性化を失わせる原因となることを忘れてはならない。

2.国立病院・療養所とは何か

国立医療機関である病院・療養所が、その設置されている地域における医療の中心的機関としての役割を果たしているのかを考えた場合、幾つかの施設を除外し、残念ながらそうなってはいないというのが現実である。

地域における医療ネットワークの中心的組織としての役割を果たすことが、国立医療機関としての当然の役割であり、高度・先進的な医療技術の移入のみならず、常に地域医療に対する協力体制を維持し続けなければならないはずである。

情報化社会において、情報の入手が早いということは、それだけで優位性を保つことができるはずである。その意味で、国立医療機関に勤務する各種職能は、地域における各種職能団体を支援すべき立場に立たなければならないはずである。

しかし、現実的には、地域の職能団体等から聞こえてくるのは、国立医療機関に勤務する専門職能は、地域職能団体の活動に対し非協力的であり、当てにならないという声である。これは国立医療機関に勤務する専門職能の問題というよりは、むしろ頻繁な転勤という社会人としての地域活動を無視した人事政策に、その原因の多くがあるとしなければならない。

3.国立医療機関の弱点

[1]単年度会計の問題点

現業である国立医療機関の最大の問題点は、国の会計制度と同様の『単年度会計』が導入されているということである。

経営改善の努力を行って予算が残ったとしても、繰り越し制度がない現状から、会計年度末には予算を消化しなければならないという、非合理的な予算制度が罷り通っている。

更に甚だしい矛盾は、年度当初には、節約、節約の大号令が掛かるが、会計年度末には、施設の節約を嘲笑うが如く、突然、予算が示達され、会計年度末である3月31日までに全て使い切ることなどという奇妙奇天烈な指示が出される。

このような場合、日常業務に必要であっても、通常予算では購入できない医療機器等を常に念頭において、直ちに購入申請を出すことで、運良く購入することができる場合もあるが、医薬品費として示達されたため、医療機器は購入できないなどということになると、とりあえず間に合っている医薬品の購入をせざるを得ないということになる。

何とも面白いのは『電脳』は、医療機器ではないため、医療機器の予算が突然示達され、業務上必要な『電脳』が欲しいなどといっても歯牙にもかけられないということである。

将に『性悪説』に立脚した国の会計制度の馬鹿融通の利かなさは感動的であるが、現業である国立医療機関には全く馴染まない制度であるとすることができる。

国立病院の職員を含めて、国家公務員には金銭感覚が無いという御批判を受けることが多いが、諸悪の根元は繰り越し制度のない国の会計制度にあり、職員の多くが、結果的に金銭感覚のない業務に馴らされているのである。

現在、国立医療機関は、独立行政法人化されるといわれているが、例え独立行政法人化されたとしても、会計制度の変革なしには体質の改善は起こり得ない。

独立行政法人化と同時に、企業会計の導入がされるというが、会計制度の抜本的な改革なしに、現業業務の活性化はあり得ない。但し、長い慣例に慣らされた職員、特に事務系管理職の発想の転換がなければ、制度の改革がされたとしても、有効に機能することはありえない。

[2]権限無き管理権

更に国立医療機関の管理運営上の問題点は、何等管理権限のない病院長の問題がある。例えば地域医療への貢献を企図し、診療科の変更を行おうと考えたとしても、厚生省の承認がなければ実行できない。

行政の判断に時間が掛かるのは通例のことであり、承認を得るために厚生省に上げるということは、現状では、実行しないということと同義語である。

明確な権限のないところに責任はないというのは世間の常識である。この実体を放置する限り、国立医療機関の将来展望は暗いといわなければならない。病院長に対する大幅な権限の委譲と同時に、病院長の公募制を導入すべきである。

自分が運営する医療機関をどうしたいのか、国の医療のなかで、自らが運営する医療機関は何を分担しようとしているのか、更に病院運営の基本を何処におくのか等々の理念を明確にし、国民にサービスする医療機関の長としての運営方針の明確な人材の登用をすることが必要であると考えている。

大幅な権限の委譲がされたとしても、明確な方針のない病院長には、施設の改善、患者サービスを最優先した医療機関の運営などは不可能であると考えるからである。

[3]理念なき転勤制度の廃止

次に問題点としてあげなければならないのは、『理念なき転勤制度』の廃止である。

事務系の管理職は、殆ど2年ごとに転勤を命じられている。その意味では自分が属する施設のために、地に足のついた仕事をしている暇がないというのが実状である。

小規模施設、中規模施設等の運営に経験を積み、やがては大施設の運営が可能になる人材を育成するなどという建前は承知しているが、実際には東京を中心とする大施設、あるいは関西を中心とする大施設の事務部門の長に、現場叩き上げの事務官が何人事務部長等として在職しているのか。

その実体は、殆どが本省経験者で占められており、病院運営に関する特段の理念、高邁な思想性に基づいて人員配置がされているとは考えられない。本省経験者は本省に人脈があり、予算等の面では若干の融通性が得られたとしても、行政手腕に長けていることが、医療機関の運営に適任であることの証明にはならない。

国立医療機関においても、施設運営の経済効率を図るとして、『経営改善何○○年計画』などという話を聞くが、地域の医療要求の実体を調査することもなく、病院の経営改善計画を立てることは不可能である。

何等科学的根拠のない経営改善計画は、地域住民=国民に魅力ある病院作りをし、増収を図るということではなく、施設内に限定された目先の経営改善計画を立案するということであり、医療機関としては、単にマイナス要因だけが残る計画にならざるを得ないと考えている。

現行の経営改善計画を見る限り、増収を図る計画ではなく、単に人件費比率を抑制し、見かけ上の改善計画が立案されているに過ぎないという言い方は、あるいは皮相な見方であるとされるかもしれないが、国立医療機関の内情を知る者としては、そう言わざるを得ないのである。

例えば、現に仕事があるにもかかわらず、看護助手、薬剤助手、あるいは電気、ボイラー、洗濯等々のいわゆる『行政職二』職種については、合理化の名の下に削減され続けているが、結果的に削減された助手の業務は、全て技術職が被ることになり、業務量の増加に悩まされている。

その一方で、専門職能は専門職能らしい仕事をと要求されるが、助手業務を代行しながら専門業務を行い得るほど人員の増加を図っていただいた覚えはないという思いは、現在の国立医療機関勤務者も思っているはずである。

電気やボイラーにしても、派遣職員が存在すればいいということではなく、もし電気が止まったとき、もし蒸気が止まったときという危機管理に対応するための人的投資であり、洗濯業務についても、院内感染防止という観点からの危機管理対応の職種であるはずである。

本省等の行政職場から見れば、『行政職二』職種の役割は終わったとする判断かも知れないが、医療機関ではそれぞれの専門職能が自ら自覚を高め自らの仕事に専念することが求められている。

頻繁な転勤のために、長期計画の立案者と実行者が別であるということが行われるという実体では、真の意味での経営改善計画の実行は難しい。最低限、経営改善計画の立案者と実行者は同一人であるべきであり、その成果を元に人事政策を立案すべきである。

病院経営の実績なしに、定席に就く現状の人事政策を実施している限り、病院経営に精通した人材の育成は困難である。

薬剤師等を含む『医療職二』職種の転勤にしても同様のことがいえる。

最近の人事異動を見ると、その目的が何処にあるのか不明な人事が見られる。転勤先に新しい技術を移入するために、その技術を持つ『医療職二』を移動させる。

新しい技術を学ばせるために転勤させる等の目的が明確な転勤であれば、転勤を命じられた側に不満は残らず、転勤者を受け入れる施設も、納得して受け入れるはずである。しかし、現状の転勤は、単に同一施設に長いからという機械的な転勤、何等、理念のない人事政策による転勤が実行されるため、転勤を命じられる側には不満が残り、受け入れ施設側も何等期待しない人事異動がまかり通る。

その結果、人事異動を命じる側は、恫喝的な態度をとるということに繋がっていく。

このような人事政策が継続されれば、明らかに職場の人心は荒廃する。医療機関における人心の荒廃は、医療過誤に密接に結びつき、患者に被害を与える結果にもなりかねない。

しかし、このような場合、医療現場にいる当事者が処分の対象にされたとしても、人心の荒廃を招いた側は処分の対象にもならないのである。自分達が管理しているのは医療機関であり、職員の士気の低下が、医療そのものを荒廃させることに心すべきである。

[2000.8.14.]

言語明瞭意味不明

水曜日, 8月 15th, 2007

-呑酸とは何か?-

医薬品情報21

古泉秀夫

添付文書を見ていると、時に“言語明瞭意味不明”の言の葉に行き合うことがある。

ハイゼット錠(大塚製薬)は一般名γ-オリザノールの製剤で

1)高脂血症

2)心身症(更年期障害、過敏性大腸症候群)における身体症候並びに不安・緊張・抑うつを承認適応としている薬である。

病院の医薬品情報管理室で、偶然ハイゼット錠の添付文書を見ていたとき、副作用の消化器の欄に

『消化器(0.1%未満):便秘、腹部不快感、食欲不振、腹痛、腹部膨満感、腹鳴、胸やけ、呑酸、無味感、口内炎等』

の記載が見られたが、中で『呑酸』という言葉は意味不明であった。そこで企業のプロパ(現在MRに名称変更)に『呑酸』とはどの様な症状なのかと質問をしたところ、『胸やけ』ですという回答だった。しかし、『胸やけ』は『呑酸』の前に胸やけの記載があるが、といったところ『先生も御承知の通り、副作用の記載は医師の報告の通り』という厚生省(現・厚生労働省)の指示がありますのでという回答であった。

「酸を呑むと胸やけが起こるという意味ですかね」

「そういうことかも知れませんね」

「しかし、医師から副作用の報告を受けたときに、報告医と相談して言葉の統一を図ることはできなかったんですかね」

「まあ、そのまま報告するという決まりですから、そのまま報告したものと思われますが」

等と訳の解らない遣り取りをしたのは今から20年ほど前である。

今年に入って、ハイゼット錠(2005.4.改訂)の添付文書を見る機会があり消化器系の副作用を見ると、依然として『呑酸』の記載がされていた。しかし、『呑酸』=『胸やけ』という簡単な図式は成立しないということは、20年前に調査した結果確認していたが、一度書かれた副作用の標記の改訂は、そう簡単に行かないということで、2005年4月現在も変更無しということのようである。

ところで『呑酸』という言葉は、南山堂医学大辞典(第18版-1998・第19版-2006) には収載されていない。収載されているのは『呑酸?囃(ドンサンソウソウ)』=『胸やけ』である。医学大辞典によれば『呑酸』という言葉では、『胸やけ』に該当せず、『呑酸?囃』として初めて『胸やけ』に該当する。

さて『呑酸』は通常使用されている国語の辞書には収載されておらず、大字典(講談社)では『呑酸』=『おくび』とする記載がされている。つまり『呑酸』はとてものことに胸やけでは通用しないということである。この『おくび』は何かというと、これは新潮現代国語辞典第二版にも収載されており、『おくび(?気)胃にたまったガスが口から出るもの。げっぷ』となっている。『?気』の読みはアイキとするものとそのままオクビとするものがあるが、一般的にはアイキではないか。

『?』→サウ、セウ、ゼウ、ザウ。カマビスシ、騒がしき声。字源:形聲。喧しく騒がしき聲。故に口扁。曹(サウ)は音符。

『囃』→サフ、ザフ、ハヤシ。ハヤス、舞を助ける聲、鼓舞。字源:會意形聲。舞を舞う時聲を合わせてハヤスこと。故に口と雑を合わす。

『?』→アイ、イキ、オクビ。アクビ。字源:形聲。咽のこと。故に口扁。愛(アイ)は音符。

『?気(アイキ)』→おくび。くさき息気。

以上は大字典の記載である。  因みに医学大辞典は『アイキ』の見出し語はなく『おくび』 [英:eructation、belching]が見出し語である。新明解国語辞典では『アイキ』の見出し語はなく、『?』一文字で『おくび』の見出し語が付けられている。

兎に角この『呑酸』という標記は、『酸を呑めば胸やけがする』という想像力を働かせるが、情報の正確度ということからすれば、最悪の標記である。しかし、一度書いてしまった添付文書の中味は、相当の理由がなければ書き直しを認めないということで、修正はされなかったということのようである。

大学で教えていた医薬品情報学の授業で、添付文書の問題点として、この事例は長い間肴にしてきたが、2006年6月、製薬企業から添付文書の改訂情報が出され、それを見ると、何と

『呑酸』→『げっぷ』

に書き改めることになったという連絡文書だったのである。

(2006.6.17.)

劇場化-何かおかしくはないですか?

水曜日, 8月 15th, 2007

鬼城竜生

最近の大衆報道、特に世間の事象に対するテレビの食い付き方は異常ではないのか。人はそれぞれいろんな意見を持っているのが当たり前で、個人的な考えに基づいて行動することが、許されるから自由主義社会ではないのか。

郵政民営化に反対したから公認は認められない。選挙区に関係なく、大衆的人気に依拠するあるいは職能団体として多くの票を握っている、挙げ句の果てには何の政治信条も示していない虚業家みたいな人間まで引っ張り出す。

それに対してテレビは、何の批判をするわけでもなく、やれ刺客だ、それ選挙の劇場化だのとうれしがり、声を大にして連日騒いでいるが、それでは単なる野次馬である。今、報道機関がやらなければならないのは、小泉氏のいう郵政民営化の実証的な検証と、到達象ではないのか。更に各政党が挙げている政策の実現性の検証も報道の重要な役割ではないのか。

郵貯の貯金額が多いから民業を圧迫するというが、庶民が郵貯を利用するのは、銀行との比較で安全だと本能的に考えているからではないか。更に民間企業も、民業を圧迫するから郵便業務を民営化するよう国に働きかけるのではなく、銀行預金の利息を上げて、郵貯より有利であることを喧伝したらどうだ。第一何時まで利子を支払わずに人の金で稼ごうと考えているのか。何かといえば、民業万能論を振り回す方々がいるが、アブク経済の時代土地転がしに狂奔し、あげく銀行を借金漬けにして国費の導入を求めたのは、民業万能論者の諸氏ではなかったのか。

郵貯・簡保で集められた金が『国債』に流れ、官僚の無駄遣いの原因になる。それを断ち切るためには『改革』が必要で、その改革こそが『郵政改革』=『郵政民営化』であるという理屈のようであるが、国債の発行を認めてきたのは自民党ではないのか。郵貯・簡保の資金が、自動的に公共事業や特殊法人に流れる仕組みは、既に2001年(従来、郵便貯金や年金などからの借り入れによって賄われていた財投計画は2001年4月から「財投債」の発行という形態に変更された。)に終焉を迎えている。

やれ高速道路を作れ、新幹線を通せ。都道府県のみならず、末端の市町村までが、箱物を作ることで自民党は政権を維持してきた。その全てが国債に依存して行われてきたのではなかったか。現在、郵貯・簡保は、運用先として政府の財政投融資計画(財投計画)に必要な資金をまかなう国債(財投債)を購入している。しかし、これは民間の金融機関もやっていることである。

いずれにしろ最大の問題は、政治家がそれぞれの出身地の権益を代表し、無闇に国の予算を引っ張り込みたがるところにあるといえる。その金は何処に行くかといえば、それぞれの地方の民間会社であり、会社の規模に関係なく、国民の金を食いまくってきたというのが我が国の実情である。

政治家が身の丈にあった財政の中で国の運営を指示すれば、官僚はそれに従って仕事をやるはずである。国家公務員が多すぎるというが、国会議員が官の仕事を増やし、役人を増やしてきたのではないのか。その反省無しに何の改革をしたところで、中途半端に終わる。今回の衆議院選挙、争点は『郵政民営化』賛成か反対かなどという単純な話ではなく、アジア地域における外交問題、少子化問題も含めて、この国の明日をどうするのかということではないのか。

(2005.8.24)

言論の自由と言論の暴力

水曜日, 8月 15th, 2007

鬼城竜生

親が有名人であったとしても、独立して生活している子供の私的生活を、週刊誌などに書かれる筋合いはな い。田中衆院議員の長女が「週刊文春」の出版差し止めを求めたのに対して、東京地裁は2004年3月17日発売の同誌の出版を禁じる決定を出した。

言論の自由に係わる重要な問題を、一人の裁判官が短時間に判断するのはけしからんというテレビの解説 者も居たが、仮処分の決定は、緊急の判断を要するものであり、一人の裁判官が短時間に判断したとしてもやむを得ない。

「週刊文春」は審尋で、記事掲載の理由として『(長女は)政治家になる可能性もあり、公益性はある』と主張 したとされるが、言論の自由を錦の御旗にして、こんな揣摩憶測に基づく勝手な言い分が罷り通ったのではたまったものではない。

少なくとも一般人にとって、新聞・週刊誌・テレビという、いわゆるマスコミは、権力なのである。権力を持つも のは、その権力の行使に際し、細心の注意を払うのは当然のことであり、全てを言論の自由、国民の知る権利で切り捨てられたのではたまったものではない。更にいつも不思議に思うのは、『国民の知る権利』とおっしゃっ て、あたかも国民の代表のような顔をしているが、いったい誰が判定して週刊誌に国民の代弁者としての地位を渡したのか。少なくともあたしは一度もお願いした覚えはないが、誰かに委任状でももらったとでもいうのであ ろうか。

国民を代表するというのであれば、最低限国民としての常識は、持っていてもらわなければ困る。今 回の問題でも、マスコミ関係者の論調を聞いていると、あたかも正義の具現者は我なりといわんばかりの発言をされていたが、その思い上がりで、全てを律されたのではかなわない。無辜の民にも正義はあるのである。 ただ、無辜の民は何の権力も持たず、他人に影響を及ぼす範囲は甚だ少ないということである。

正義を具現 するなどという思い上がりに、どっぷりつかっていると、全ての判断が、正義であるという誤った思いに囚われる のかもしれないが、単なる私人を自分たちの勝手な思い入れで、公人扱いにしたということに明確な反省の意志を示すべきである。 東京高裁判断で、出版禁止の仮処分決定は取り消されたが、同時にプライバシーの侵 害は有るとするとともに、記事の公共性と公益目的を否定した。 少なくとも『表現の自由』という思想は、マス コミの横暴やマスコミの暴力を容認するために存在するわけではない。更にマスコミ人自らが、節度を持った対応をすることで守らなければ、守れきれるものではない権利だということを、常に自戒すべきである。

(2004.4.15.)


  1. 読売新聞,第45972号,2004.3.18.
  2. 読売新聞,第45986号,2004.4.1.

薬とは何の関係もありませんが-古池や

水曜日, 8月 15th, 2007

鬼城竜生

薬と直接の関係はないが、最近、妙なことに嵌り込んでいる。というのも先日、東京都の管理する公園で、芭蕉の『古池や蛙飛びこむ水の音』の句碑を、見る機会があってのことであるが、これが何故、芭蕉を代表する句なのかというところが、よく見えないということである。

別に俳句を勉強しているわけではないので、どうでもいいようなものではあるが、それにしても世間一般の評価の足元ぐらいには、近づきたいものと思うわけである。

この俳句『古池に蛙が飛びこんだ水の音が聞こえた』というだけのことであれば、『それが何よ』というこであるが、それでは芭蕉の代表的な句であるという評価からは甚だ遠い理解ということになるのではないかと思われる。

しかし、一方で、お前さん、こんな俳句を作れるのかといわれれば、それはとても無理で、この何気なさというのは、ある意味で恐ろしい力だといわなければならない。

ところでこの句、最初の句の形は『古池や蛙飛んだる水の音』だったのではないかといわれているそうである。

更に『古池や』のところも、最初からそうだったのではではなく、同席していた其角の提案で『山吹や』としていたとされるが、最終的に『古池や蛙飛びこむ水の音』に変化していったのではないかとする考証が報告されている。

和歌では蛙を詠むときには必ず鳴き声を詠むのが決まりで、それが文学の伝統です。蛙の声は散々和歌で詠み古されている。それを蛙を詠んで鳴き声にふれず、水に飛びこんだ音をもってしたというところにこの句の新しさがあり、俳諧らしさがあります。

伝統的な叙情を捨てて、蛙がどぶんと水に飛びこむという、ごく卑近なことを素材に取り上げたのは、いわば俳諧の根底にある「滑稽」です。 その滑稽に対して「古池や」という上五文字を冠らせたことによって、滑稽が下の方へ押さえこまれ、内面化され、閑寂な風趣が表面に出てきます。

逆に言うと、古池をただ古い、寂しい池としてのみ詠むのでなく、思いがけない蛙の飛びこむ音をもって古池に配したことによって、俳諧らしい詩情が成り立つのだと言えましょう。「古池」と「蛙の飛びこむ音」とが微妙なバランスを保ち、互いに抵抗しながら助け合って詩情が成り立っています。

「蛙飛んだる」では、滑稽が勝ち過ぎて、古池との間に距離があり過ぎます。微妙なバランスが崩れて、両者の間に切断が生じます。

芭蕉が初案からだんだん工夫して、この微妙な釣り合いを作り上げたのは、さすがであり、この句が昔から蕉風開眼とされているのは、一理あることだと思います[井本農一:芭蕉入門;講談社学術文庫,1977(第38刷,2005.4.)]。

この解説を読んでいて、解りそうで解らないといういがらっぽさを感じた。将に隔靴掻痒の感というところである。つまり、これは一つの約束事ということなのであろうが、『滑稽』の字面に引っ張られて、今一意味が理解できないのである。つまり『古池や蛙飛びこむ水の音』を理解する上で、重要な部分を『滑稽』という戯れ言みたいな言葉で説明されても困るということである。

ところで最近、読売新聞(第46788号,2006.6.14.) の『芭蕉再発見 対談(中) 蕉風とは』の中で、長谷川櫂(俳人)さんと横浜文孝(江東区芭蕉記念会館次長)さんの遣り取りが見られるが、『古池や蛙飛びこむ水の音』の句について、長谷川氏が「多くの人が『古池に蛙が飛びこんで水の音がした』と解釈しているが、それだとつまらない。なのに、この句は蕉風開眼の句といわれていて………」 ?解釈が違うと確信したきっかけは。

長谷川「弟子の支考の『葛の松原』に、こうあります。芭蕉が庵で句を案じていると、蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきた。そこでまず『蛙飛びこむ水の音』と詠み、上五を考えた末に『古池や』と置いた。」?池を見ていたわけではないと。

長谷川「蛙が飛びこむ水の音は聞いたが、古池は見ていない。音を聞いて古池が心に浮かんだ………と解釈しなければならない。そうすると面白くなる」?どう面白いのか。

長谷川「蛙が古池に飛びこんで水の音がした、とすると『間』が全くない。けれど、音を聞いて心の中に古池が浮かんだとすると、『古池や』と『蛙飛びこむ水の音』の間に『間』が生まれる。この『間』は時間的、空間的であると同時に心理的なもの。現実の音を聞き、心の世界が開けた。この心の世界が蕉風であり、それを開いたことが開眼です。」

横浜 「古池の句は記念館近くの一帯にあった芭蕉庵で詠まれました。江戸後期の木版本は、庶民に受け入れて貰うためこの句をビジュアル的に表現した。芭蕉庵があって古池があり、小さな蛙が池に飛びこもうとする絵が描いてある。句と出版業が商業ベースで結びついて解釈された。

長谷川 「芭蕉が沈思にふけり、外から蛙の飛びこむ音が聞こえてくる場面の絵もあります。しかし、古池は心の中のもの。そもそも映像には馴染まない。」

横浜 「芭蕉庵周辺は湿地で、蛙が生息しやすかった。今も記念館の庭に蛙が姿を現します。『芭蕉翁古池の跡』として史跡に指定された芭蕉稲荷も近いのですが、近辺に池はない。庵が芭蕉没後に武家屋敷に取り込まれ、滅失したからでしょう。記念館の庭の人工の池を指して『あれが古池ですか』と聞いてくる人がいます。」

この対談の内容は、芭蕉の弟子の話を引用することから出発しているが、井本氏の論述とは若干その内容に相違が見られる。最も、弟子が師匠を偉く見せようとするのは当然のことであるから、先に音があって、古池に蛙が飛びこむのを見たわけではないと書いたのかも知れない。

しかし、蛙が飛びこむ音を聞いたのは夜だったのか?。 夜であれば蛙があちらこちらで鳴いており、何かに驚いた蛙が鳴き止んで水に逃げたとも考えられる。その音を聞いて『蛙飛びこむ水の音』としたのかも知れないが、何で『古池や』なんだということである。

多分、当方の『古池』に対する印象が、せこいのではないかと思われる。古池というと、どういう訳か手入れの悪い枯れ葉の落ちた薄汚い小さな池を思い浮かべてしまうが、芭蕉が住んでいた時代の深川は湿地帯だったということであり、池といっても人工の池とは限らないはずである。

まあ色々考えてみても、解らんものは解らんということで仕舞いであるが、従来の俳句とは異なり、自然な諷詠ということでの位置づけかも知れない。まあ、暫く捏ねくり回しているうちに、何時かひょいと理解が行くかも知れない。

薬の回収-原因は色々ありますが

水曜日, 8月 15th, 2007

魍魎亭主人

『トローチに毛髪』

製薬メーカー「興和」(東京)は14日、「新コルゲンコーワトローチ」の錠剤中に毛髪が混入しているのが見つかったとして、同時に製造した 23,760箱を自主回収すると発表した。回収対象は昨年8月から10月に出荷され、箱の側面に「LH5C」という製造番号が記載されているもの

[読売新聞,第46728号,2006.4.15.]。

『子ども用風邪薬金属片混入で回収』

医薬品製造販売会社「池田模範堂」(富山県上市町)は25日、子ども用風邪薬「ムヒのこどもかぜ顆粒」に金属片が混ざっているのが見つかったとして、約14万箱の自主回収を始めたと発表した。

この製品は、第一薬品(富山市荒川)が製造、池田模範堂が販売。金属片は、生産時に使用していたステンレス製のふるいの一部が欠けたものという。回収対象製品は2004年8月から12月の間に出荷され、箱の外側に「T01」から「T09」の製造番号が記載されている

[読売新聞,第46739 号,2006.4.26,]。

企業にとって、製品に不純物が混入することは、間接的損失として製品回収経費、直接的損失として製品廃棄による損失等が考えられる。それだけに各製造工程は、徹底した管理が行われているが、それでも不純物が紛れ込むことは避けられない。

従前、病院の現場で、注射薬のアンプル内に小さな虫が入っているのを見つけたことがあるが、指摘された製薬企業は、工場の管理の徹底をあげつらい、考えられないと主張していたが、未開封のアンプル内に外部から虫を入れることは不可能であり、全ての製造工程が真空状態にでもなっていなければ、必ずヒトについて虫は入るという意見に、納得せざるを得ないということになった。

ところで、工場の管理の徹底について、次のような基準が定められている。

『ホ 次に掲げる場合には、バリデーションを行い、その記録を作成すること。

  1. 当該製造所において新たに生物由来製品等の製造を開始する場合
  2. 製造手順等に生物由来製品等の品質に大きな影響を及ぼす変更がある場合
  3. その他生物由来製品等の製造管理及び品質管理を適切に行うために必要と認められる場合

ヘ 製造作業に従事する者以外の者の作業所への立入りをできる限り制限すること。

ト 次に定めるところにより、作業員の衛生管理を行うこと。

(1) 現に作業が行われている無菌区域又は清浄区域への作業員の立入りをできる限り制限すること。

(2) 製造作業に従事する者を、使用動物(製造に使用するものを除く。)の管理に係る作業に従事させないこと。

チ 次に定めるところにより、清浄区域又は無菌区域で作業する作業員の衛生管理を行うこと。

(1) 製造作業に従事する者に、消毒された作業衣、作業用のはき物、作業帽及び作業マスクを着用させること。

(2) 作業員が材料又は製品を微生物等により汚染するおそれのある疾病にかかっていないことを確認するために、作業員に対し、六月を超えない期間ごとに健康診断を行うこと。

(3) 作業員が材料又は製品を異常な数又は種類の微生物により汚染するおそれのある健康状態(皮膚若しくは毛髪の感染症若しくは風邪にかかっている場合、負傷している場合又は下痢若しくは原因不明の発熱等の症状を呈している場合を含む。)にある場合には、申告を行わせること。

さて毎週土曜日の午後7:00-7:44分に放送されるNHK教育の「サイエンスZERO」第111回は『漢方薬の新潮流西洋医学との融合』という番組で、キャスターの“眞鍋かをり”氏が漢方薬メーカーで、118種類もあるという漢方薬の材料の生薬を見せてもらうという主旨のものである。

その番組に何で文句をいうのかといえば、真鍋氏の作業帽の被り方なのである。工場内 に入るときに被る作業帽は、おしゃれのために被るものではなく、 髪の毛を落とさないために被るものであり、その意味では真鍋氏の 被り方には違和感を感じるということである。

女の髪は象の足も繋ぐといわれている。一本でも落ちれば、探し 出すことは困難なのである。

誰の発案でこのような作業帽の被り方になったのかは知らないが、少なくとも科学番組と銘打って放送するからには、規定通りの被り方をするべきではなかったかということである。

このような意見に対して、細かなことに目くじらを立てるなという声があるかも知れない。しかし、人の口に入るものを製造する工場では、細かなことの積み重ねが、工程管理の基本なのである。番組の内容からいえば、彼女がスッポリ髪を隠すように作業帽を被ったとしても、何の問題もなかったと思われるだけに、基本的なところをないがしろにしていると見られる結果となったことは残念である。

(2006.5.11.)

薬の安全性

水曜日, 8月 15th, 2007

『薬の安全性』はどうやって決めるのかという質問を受け、通り一遍の返事はできたとしても、より詳細な内容は、調べて見なければ分からないと いうことで、調査した結果は以下の通りである。

医薬品のヒトに対する有効性と安全性を確認するためには、最終的にはヒトによる臨床試験で、有効性と安全性を確認することが必要である。  しかし、そのためには、事前に動物による実験によって、安全性を予測することが必要となる訳である。 安全性を確かめる動物実験では、小動物と大動物が用いられるが、小動物は主として囓歯類、大動物はヒトに近い霊長類も用いられるが、一般的には犬が多く使用される。

毒性試験には、一般毒性試験と特殊毒性試験の2種類が挙げられる。

一般毒性試験 単回投与毒性試験 (急性毒性 試験) 被験物質を1回投与 したとき に観察される毒性を質的・量的に明らかにすることを目的にしたもの。この試験により概略の致死量を求める。概略の致死量とは、必要最小限の動物を用いて、大きな間隔で幾つかの異なる用量の被験物質を投与した時に観察される死亡率から、致死量が存在するであろうと推定されるおおよその範囲である。
反復投与毒性試験 (亜急性、 慢性毒性試験) 被験物質を繰返し投 与した 時、明らかな毒性変化を惹起する用量とその変化の内容、及び毒性変化の認められない用量、即ち無毒性量(No-Observed Adverse Effect Level)を求めることを目的としたものである。なお、毒性変化と薬効薬理作用に基づく徴候とは、区別が困難なことが多いので、生データ、最終報告書には観察された徴候の全てを記載し、考察においてどの徴候が薬効薬理作用に基づくかということを記述する。また標的器官・組織に変化が見られなかった最大容量を、最大無影響量として記述することが求められている。
回復性試験 毒性変化の回復性と 遅延性毒 性を検討するため、1ヵ月又は3ヵ月の反復投与毒性試験では回復毒性試験(Reversibility study、Follow-up test)を行う。出現した毒性変化が可逆的変化であるか、非可逆的変化であるかを見るものであり、その毒性変化の重篤度を知る上で重要である。この試験は、通常、毒性試験を実施した群のうち高用量の1-2群と対照群を対象に実施する。
特殊 毒性試験 生殖・発生毒性試験 (segment I:精子形成・交配能、segment II:器官形成・催奇形性、segment III:授乳・哺育能、異常新生児・異常分娩) 医薬品を生体に適用 したとき に、その生殖能と後世代に対する影響を検索することを目的として実施される動物試験で、催奇形性試験(teratogenicity test)及び世代生殖毒性試験(generation reproductive toxicity test)である。この検索の結果は、ヒトの生殖・発生過程に対する安全性評価の貴重な資料となる。

本試験法は医薬品開発に対して、固守するよう求めるものではなく、基本姿勢としては得られた所見が臨床上の安全性評価に適するものであるならば、他の適切な方法の採用も可能とされている。

具体的に生殖・発生毒性とは、薬物によって引き起こされる毒性のうち、特に雌雄の生殖細胞の形成、受精と着床、胚や胎児の発育、妊娠の維持や分娩、授乳と哺育並びに生後の発育などに対して有害な反応を引き起こす毒性。

局所刺激試験 実験動物の皮膚・粘 膜などに 被検物を局所的に適用した際に主として当該局所に現れる障害を検査する試験。
皮膚感作性試験 皮膚外用剤について Adjuvant and patch test等。
皮膚光感作性試験 皮膚外用剤、皮膚光 感作を有 する可能性が考えられる薬物についてAdjuvant and strip法等の試験の実施。
依存性試験 生体と薬物の相互作 用の結果 生じる特定の精神的状態(時に身体的状態を含む)の発現について検討する試験。
癌原性試験 主として実験用小動 物に腫瘍 を発生させる実験を行う。
変異原性試験(復帰 突然変異 試験、染色体異常試験、小核試験) 変異原性試験(遺伝 毒性試 験)とは、ある化学物質が、生物の遺伝物質(DNA)に作用して、選択的に化学反応を起こしたり、その分子構造の一部を変えたりする性質(変異原性)があるかどうかを調べるものである。この作用が体細胞に生ずると発癌の、また生殖細胞に生ずると種々の先天異常を引き起こす原因となる。
抗原性試験 薬物アレルギーの可 能性につ いて、動物を用いた厳重な試験を行う。

*能動感作による抗原性の検出。*受身皮膚アナフィラキシー(PCA)反応による抗原性の検出。*受け身赤血球凝集(PHA)反応による抗原性の検出。

試験対象動物を選ぶ場合には、薬物による感度や腸管吸収、胆管循環、肝薬物代謝酵素等がヒトと類似する動物を選んで実施する。

毒性試験は、ヒトへの適用上、最大無作用量(作用を起こさない用量の限度)とと もに、発現頻度、質的毒性も明らかにする必要があるとされている。薬物の有害作用の機序を、動物で解明することは、危険度や安全性をヒトで推測する上で役立つものである。

動物試験の結果を受けて第I相臨床試験に進む段階で、ボランティアは男性に限定されることを考えると、反復投与試験、segment I、アレルギー反応、変異原性試験、不可逆反応の有無等、疑いがある場合は、癌原性試験などを終了することが道義的にも求められる。

生体にとって全ての物質は毒物であり、毒でないものはないとさえいえる。これらの有害作用の機序を、動物で解明することは、ヒトでの危険度や安全性を推測する上で役立つものといえる。動物の試験で毒性を示す用量は、薬物によって異なるが、一般に50%致死量(LD50)で示される。目的とする薬理作用を示す有効性は50%有効 量(ED50)で示される。半致死量と半有効量の比LD50 /ED50 を安全域(sefety margin)と呼んでいる。

薬の有効性、安全性が動物段階で確認されたとしても、必ずしもヒトで同じことが起きるとは限らない。ヒトへの適用は十分な管理下で少量の薬物 より次第に用量を上げ慎重に臨床試験が行われる。

第I相臨床試験 健常男子志願者への 投与によ り安全性及び血中濃度(体内動態)の検討を行う。但し、抗癌剤は有志患者により行う。
第II相臨床試験 少数の患者、厳重な 監視下で の投与。合併症のない軽度の男女患者を対象とする。前期第II相臨床試験:少数例、後期第II相臨床試験:多数例に区分し、有効性、安全性を確認、至適用量を設定する。
第III相臨床試験 適応疾患及び患者数 を更に拡 大し、主として有効性、安全性について検討する。

Open Trial:通常の臨床治験で、医師、患者の両者が使用される治験薬を承知した上で、治療が行われ薬物の有用性(有効性と安全性を加味しての表現)を確認する。

Double Blind Test(多施設二重盲検試験):患者を厳格に選定し、被験薬物、対象薬、偽薬(placebo)を用い、通常100-300人の男女患者を対象に実施し、薬物の有用性(有効性と安全性を加味しての表現)を確認する。

第IV相臨床試験 市販され実際の診療 の場で一 斉に多数の患者に使用されるので、安全性の問題で極めて重要な相である。限定された患者でなく、高齢者、小児、肝、腎その他疾病患者、時に妊婦などあらゆる患者が対象になるので、第III相臨床試験までの間に見出されなかった副作用が発現する場合も多く、薬の真価が問われる。

動物実験で、安全性の確認された物質について、第I相臨床試験から第III相臨床試験までの臨床治験で、ヒトに対する有効性・安全性を確認する。但し、動物実験によって安全性に関する全ての事項が解るわけではなく、第III相臨床試験段階を無難に通過したとしても、それで安全性の全てが確認されたわけでもないことを理解しておかなければならない。


  1. 高柳一成・編:薬の安全性-その基礎知識;南山堂,2000
  2. 南山堂医学大辞典第18版;南山堂, 1998
  3. 薬科学大辞典 第2版;広川書店,1990

国は何故補償できないのか 

水曜日, 8月 15th, 2007

魍魎亭主人

台湾又は韓国、韓国又は台湾に、日本の統治時代に設置されていた癩療養所に強制入院させられていた患者が、ハンセン病補償法に基づく補償請求を棄却されたことで、棄却処分の取り消しを求めていた行政訴訟の判決が東京地裁であった。

台湾訴訟では、菅野博之裁判長が『台湾の療養所は、補償法に基づく厚生労働省告示が規定する国立療養所に該当する』と判断し、補償金の支給を認めたのに対し、韓国訴訟では、鶴岡稔彦裁判長が『日本統治下の入所者は補償対象に含まれない』として、原告の請求を棄却した。

ハンセン病補償法は、隔離政策の誤りを認め、国に賠償を命じた2001年5月の熊本地裁判決を受け、同年6月に成立した。前文にハンセン病元患者への謝罪の文言が盛り込まれている。補償金は、療養所の入所期間に応じて800万-1400万。2006年までの時限立法で、これまで3475人に423億 4600万円が支給されたとされている。

さて、今回、台湾と朝鮮の判決で、判断が相反する結果となったのは、『ハンセン病補償法』の解釈の相違によるといわれている。

『ハンセン病補償法』は、国内の療養所入所者を対象にしており、国外の療養所の入所者については対象としていない。従って法律が対象としていない者を、その法律で救済することは出来ないとするのが、韓国訴訟であり、日本の統治時代の療養所は、日本の管轄下に管理運営されていたのであるから、当然補償の対象となるとするのが台湾訴訟の判決ということのようである。

台湾にしろ朝鮮にしろ、日本統治時代は日本の意志によって療養所は運営されていたわけであり、日本と同じ隔離政策がとられていた訳である。この事実は、歴史的な事実として否定できない話であり、『ハンセン病補償法』を検討するときに当然対象として組み入れておくべきではなかったのか。

その時に同時に対応しておけば、訴訟などという手間を掛けることなく、救済されていたはずである。 入所者は既に高齢を迎えている。事実は否定できないということであれば、早急に対応すべきである。新聞報道によれば、厚生労働省は原告らの包括救済の方針を固めたということであるが、その一方で、台湾訴訟は東京高裁に控訴するとしている。なるほど理屈からいえば、外国人の救済を決めていない『ハンセン病補償法』を原告有利に解釈して、国が敗訴した裁判を敗訴のままにすることは、困るということなのであろうが、高裁で敗れ、最高裁で敗れたらどうするのか。

まあ、上級審では勝てるという確信があるということなのであろうが。

いずれにしろ日本の法律によって管理されていた時代、日本の法律によって強制的に入所させられていたというのであれば、国内の入所者と同様、救済するのは当たり前のことである。ある意味でいえば、これも過去の負の遺産を清算することの一つだということかもしれない。

片付ける気があるなら、早急に片付けてしまった方が、精神衛生にいいのではないか。

(2005.11.18.)


  1. 読売新聞,第46557号,2005.10.25.
  2. 読売新聞,第46568号,2005.11.5.

クリスタル・インテリジェンス

水曜日, 8月 15th, 2007

医薬品情報21

古泉秀夫

情報関連の言葉として新聞のコラムで『クリスタル・インテリジェンス』=『結晶性知』=『バラバラな知識を結晶のようにまとめる知性』なる言葉を見た時は、なるほどねぇと思った訳ではある。が、時間が経つにつれて、何か引っかかるものが出てきた。何時もなら習慣的にきっちりメモを取っておくのだが、今回は何気なく読み流したということで、どの新聞に載っていたのかも定かではない。

2004年12月20日(月)・21日(火)のどちらか。どっちかというと21日が怪しい。読んだ可能性のある新聞は毎日新聞、日本経済新聞。掲載のスタイルはいわゆる囲みで、誰かの著作中に『クリスタル・インテリジェンス』なる言葉が使われていたという内容だったと記憶している。

花の写真 クリスタル(crystal)という言葉の意味は「結晶、水晶」、インテリジェンス(intelligence)の意味は「知性、理知」である。それからすると『結晶性知』なる訳語は、ややピンと来ないといおうか、他に何かないのかというのが正直な思いである。

つまり『バラバラな知識』を『結晶のようにまとめる能力』という意味が、『結晶性知』からは読み取れないのではないかと思われるのである。

文書を書く場合、カタカナ語を使いたくないという思いが、殆ど病的に近いと思っている当方としては、適切に置き換えることの出来る言葉はないのかと思い迷うのである。

ただ、「この日記ではクリスタル・インテリジェンス、つまりは長いあいだの経験や学習で得てきた判断力であれこれと書いてきた。そこにはおのずから限界があると私は自覚している。自分が蓄えてきた枠内での判断にすぎないからだ。」という文脈からすれば、“情報を蒐集する技術”ではなく、自身積み上げてきた知識、蒐集した知識ということになる。

クリスタル・インテリジェンスを『バラバラな情報を蒐集し、まとめる知識(能力)』と考えると、『結晶性知』は意味不明の訳語になるが、蒐集し、蓄積した知識に基づく判断ということであれば、『結晶性知』でいいということかも知れない。

しかし、この言葉の意味が、世間一般に広く知られるようになるまでに、クリスタル・インテリジェンスが一人歩きすることは当然考えられる。何せ、『結晶性知』に比較すると、クリスタル・インテリジェンスは、意味は不明であるが数段格好がいいという、若者受けをする言葉であるということである。

行政の減量とは何か

水曜日, 8月 15th, 2007

魍魎亭主人

政府の『行政減量・効率化有識者会議』(座長・飯田 亮セコム最高顧問)が、国家公務員を5年間で5% 以上純減するため、2006年2月20日までに削減計画の提示を求めていた4省8分野(公務員の総人件費削減の15分野のうち)について、刑務所、拘置所など行刑施設とハローワークの2分野がほぼ0回答。5分野は期限までに回答できない見通しだとする報道がされていた。

8分野について農林水産省、厚生労働省、法務、国土交通省の4省に対して、削減する事業と職員数の報告を求めていたものであるとされる。

その中で、厚生労働省はハローワークについて「失業手当の給付と職業紹介は密接に関連しており、紹介事業だけの民間委託は難しい」と回答。国立高度専門医療センターの独立行政法人化は受け入れるが、社会保険庁関係は「3月中旬の社会保険庁改革法案に具体案を盛り込む」と回答を先送りする。

事業分野 定員(人)
農林水産省 農林統計 5,008
  食糧管理 7,393
  森林管理 5,264
厚生労働省 ハローワーク 12,164
  社会保険庁 17,365
  国立高度専門医療センター 5,629
国土交通省 北海道開発 6,283
法務省 行刑施設 17,645

[読売新聞,第46673号,2006.2.19.]

政府は2006年2月13日、行政改革の一環として国立がんセンターなど6機関8病院からなる国立高度専門医療センターを2010年に独立行政法人化する方針を固めた。厚生労働省は当初、難病の治療・研究や感染症対策など、不採算分野を国の政策として担っていることを理由に独法化に難色を示していたが、国が引き続き関与できる仕組みの整備や財政支援などを条件に、受け入れに転じた。

高度専門医療センターは「がんセンター」「循環器病センター」「精神・神経センター」「国際医療センター」「成育医療センター」「長寿医療センター」で構成され、所属する国家公務員(定員)は2005年度末で5629人となっている。 一般の病院と同様に治療を行っているほか、がんや難病の研究、新たな診断や治療法の開発、医師らを対象とした先端医療の研修等、多様な機能を担っている。

2005年12月に閣議決定された政府の「行政改革の重要方針」は、国家公務員を5年間で5%純減する方針を決定。これを受け、中馬行革相が1月6日の閣僚懇談会で川崎厚生労働相に対し、高度専門医療センターの独法化の検討を要請していた。だが、厚労省は、同センターについて「先端医療の研究など、採算性を度外視した分野を国が政策として行っている」等と主張。 厚労省は独立行政法人化の受け入れに当たって、[1]感染症や難病対策など国が必要と判断した政策を実行できる連携の仕組みの整備、[2]人件費の水準維持や研究施設整備のための交付金、施設整備費補助金といった財政支援の充実等を訴える方針

[読売新聞,第46668号,2006.2.14.]。

国家として国民を守る手法は、軍隊による外圧対応の防衛のみではない。発生すれば、膨大な死者が予測される新たな感染症に対して、感染防御を図るための研究と治療対応の訓練等を日常的に行うとともに、未知の感染症の汎発性流行(pandemic)に際し、水際対策や患者の隔離治療に場所を提供するとともに、専門的に対応することも国民を守ることの一つである。 卑近な例でいえば、世界保険機構(WHO)が懸命に追跡している強毒性の鳥インフルエンザウイルス (H5N1型)による感染症である。本ウイルスの感染症である鳥インフルエンザによる死者は、2003年以来全世界で103人に達したとされる。未だ死亡した鳥からの感染が主体のようであるが、人にのみ感染するのではなく、英国では猫に感染したとする話も流れている。更に死者は一部の地域に限定して発生しているわけではなく、徐々に広がりを見せている。

報告ではヒトからヒトへの感染を惹起するウイルスの変化は未だ見られていないようであるが、一方では徐々に変化しつつあるような嫌な予感がするのである。鳥インフルエンザが、世界的に蔓延するようなことがあった場合、国家の根幹に係わる死者が出る可能性が予測されている。これら人類への脅威を排除するための対策の強化は国家がやることであって、その最も相応しい施設が国直轄のナショナルセンターである。 人類は未だ癌を征服していない。国民が癌で命を失うのは国家の大きな損失であり、その癌を撲滅するための研究・治療は、国の防衛線の一つである。少なくとも国の研究・治療機関として、運営することに国民は誰も避難はしない。

今回、国直轄のナショナルセンターを国立から外し、独立行政法人化するという。国家公務員の総枠抑制のためやむを得ない処置だという。しかし、考えようによっては本省関係の人員削減-行政職I関係の削減を避けるために、医療機関を犠牲にしたと見ることもできるのである。あるいは考え過ぎだといわれるかもしれないが、国直轄でなければ不採算医療-何時起こるかも解らないことに人手は割けない。つまり独立行政法人化されれば、不採算医療はできないということなのである。

(2006.3.22.)