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病気腎移植-果たして患者のためか?

水曜日, 8月 15th, 2007
2006年11月宇和島徳州会病院で発覚した病気腎移植の問題は、その後広がりを見せ、万波医師が以前勤務していた市立宇和島病院など、計5県10病院に入院する腎臓癌やネフローゼ症候群などの患者から腎臓を摘出し、判明しているだけで計42件の移植が行われたとされるが、B型肝炎や梅毒などの感染症の患者からも腎臓を摘出し、移植に利用していたとする報道がされた[読売新聞,第47035号,2007.2.17.]。

いわゆる“徳島グループ”は、移植する摘出腎臓の判定基準を何処に置いていたのだろうか。

一連の報道を見る限り、どうやら病気と診断して摘出した腎臓を、見境もなく患者に移植したということようであるが、この選択肢の意味は何だったのだろう。臓器移植後の患者は、免疫抑制剤を投与するため、感染には弱い。易感染の危険が明らかな患者に、B型肝炎ウイルス陽性の患者の腎臓を移植し、梅毒に対する抗体が陽性の患者の腎臓を移植したという行為は、患者の利益のためにというのには当たらないのではないか。

患者の利益のためではなく、移植が行われていたとすれば、それは何のためだったのか。素人には全く理解できない行為であるといわざるを得ないが、悪く勘ぐれば、自分の臓器移植の技術を維持するためか、それとも自分の移植技術を誇るためなのか。

誠に申し訳ないが、一度御自身の言葉で、その理由を、語っていただきたいのである。『患者の利益のため、人道的立場に立って』等という医師の得意のフレーズではなくて、正直なところを語っていただきたいのである。また、当該医師には、患者のみならず一般の人達に対しても説明する責任があるのではないか。

『腎摘出は正しかったのか?』

いわゆる”徳島グループ”の病気腎移植問題について、2月18日大阪市内で開催された病院の調査委員会は、同病院で行われた11件を検討してきた専門委員会から『医学的に容認できるものはない』との報告を受けた。しかし、調査委員の中から『患者の個別事情も考慮すべきだ』という意見があり、調査委員会の結論は3月3日に万波医師の釈明を聞いてから出すことになったという。

その報告の中で、患者との間で書面による説明と同意が無く、カルテ記載も不十分な点に大きな問題があり、専門委員会として『残っている記録からは、医学的に適切との判断は出来ない』とする意見が述べられていたという。これを受けた調査委員会は『十分な記録がないのは遺憾で、当該医師に反省を求める必要がある』としたが、各症例の最終評価は、万波医師の話を聞いた上でということになったという。

一方、万波医師はこの日、支援患者でつくる『移植への理解を求める会』が宇和島市内で開いた集会で挨拶し、病気腎移植の必要性を訴えた。調査委で医学的に不適切と指摘されたことに対しては、「カルテだけの調査と、患者と向き合っている移植現場にはズレがある」と話したとされる[読売新聞,第 47037号,2007.2.19.]。

病に冒された腎臓について、摘出すると判断した理由は、その腎臓が正常に機能していない、生体内にあったとしても患者の生命維持に役に立たないという判断が有ったからではないのか。だとすればその腎臓を他人に移植することで、移植された腎臓が適正に機能するとは思われないが、一度生体から摘出された腎臓は、その機能を復活させるとでもいうのであろうか。

悪く勘繰りたくはないが、十分に治療可能な腎臓を、腎疾患を理由に摘出し、他の患者への移植に使ったのではないかと思ってしまうのである。そういう考え方は、下種の間繰りだというかもしれないが、治療不可能なほどに機能の低下した、あるいは病に冒された腎臓が、移植されたとたんに正常に機能するようになるとは考え難いのである。少なくとも病に冒された腎臓が、他人の体の中でそれなりに働くと考えるに至った判断の根拠は説明する必要があるのではないか。

また、万波医師は専門委員会・調査委員会の判断に対して、「カルテだけの調査と、患者と向き合っている移植現場にはズレがある」と述べておられるが、専門委員も調査委員もそれぞれ医療の専門家である。日常的には患者と接して医療を行っている。その方々が見てやはりおかしいと疑念を呈しているのである。それに対する回答は必要ではないか。それにしてもわからないのは『移植への理解を求める会』の存在である。病気腎を移植されて、尚、将来にわたって過不足ない日常生活が送れると判断されておられるということなのであろうか。

『当然といえば当然なんですが………』

日本移植学会の田中紘一理事長は、2007年2月24日の記者会で、「手術の進め方の不備や病院に倫理委員会がない、患者の選択に疑問があるなど問題は多い」と万波医師及び宇和島徳州会病院(愛媛県)の体制について厳しく批判した。

この日の臨時理事会では、病気腎移植にかかわった5県10病院で行われた調査や進捗状況等について説明があった。提供者になった患者に他の治療法の選択肢を提示していないという問題点等が報告された。万波医師が主導した病気腎移植42例について、日本移植学会を含む腎臓疾患の関連5学会が、各病院の調査委員会に専門医を派遣し、その妥当性を検証している。田中理事長は「各調査委員会からは色々な点で不備があることが報告されている。だが、腎臓病の患者さんの治療について、移植とは別に(専門の学会毎に)考える必要がある。」としている。一方、宇和島徳州会病院の貞島博通院長は、都内で記者会見を開き「全てが駄目だ、というルールを作るのは望ましくない」と反論した[読売新聞,第47043号,2007.2.25.]。

病院で調査委員会をもたない計5病院6例について厚生労働省の調査班が検証した結果、摘出すべきでなかったのは尿管癌、血管筋脂肪腫、石灰化した腎嚢胞、腎動脈瘤の患者の計4例。何れも化学療法や温存療法などで対応できた。もう1例の癌患者は腎臓摘出は疑問とされたものの、摘出後に治療して患者の体内に戻す自家移植でも対応可能と指摘。摘出は問題なしとなった別の尿管癌の男性患者も、出血が酷く再手術が必要になるなど、手術方法に問題があるとされた。

癌患者の3例について、移植患者に癌転移の危険性があるとしており、インフォームド・コンセントについても、別の治療法を提示しなかったり、患者が前の主治医との相談を希望しても断るケースがあったとされる。その他の病院で検証している専門委員会においても、医学的に容認できるものではないとの判断が示されているという[読売新聞,第47041号,2007.2.23.]。

これに対して万波医師は『患者と向き合った上で経験から判断して摘出した。移植ありきでやったわけではない』、『利用できる腎臓を利用しただけで、間違っていなかった』と記者会見で手術の正当性を主張したとされる。

各病院の専門委員会、厚生労働省の調査委員会の調査の結果については、まだ正式な報告はされていないが、現段階では無難な御意見に落ち着くようである。つまり当然といえば当然すぎるが、全否定報告が出されるということのようである。何れにしろ現段階では時期尚早であり、一人の医師の判断で、手術の適否を判断するには無理があるということではないのか。

先ず最初に決めておかなければならないのは、病気腎を使用することの是非についてではないか。

腎疾患の当人に役に立たないと判断された腎臓が、何故、他人に移植した場合、生命を維持する程度に機能するのか。摘出する以前に何等かの治療を施せば、腎機能が回復したか、あるいは摘出を要しない程度に改善したのではないかとも考えられる。それをあえて摘出するという選択肢にのみ限定した結果には、理解がいかない。更に摘出して処置した後、当人に戻せばまたもと通り機能したとすれば、何故、他人に移植するという判断がされたのか。

これらの疑問が一切払拭される、そういう環境条件を整えなければ、病気腎移植のEBM(Evidence-based Medicine:根拠に基づく医療)は得られないのではないか。

臓器移植の提供者が得られない。窮余の一策として病気腎移植が考えられたと思うが、移植を受ける方々に一応の恩恵があるとして、摘出された側にどれだけの恩恵があったのか、病気が治ったのだからそれでいいのではないかというのであれば、その意見には納得できない。

『正しい評価は出来ないんではないでしょうか』

宇和島徳州会病院(愛媛県宇和島市)の病気腎移植問題を検討していた同病院の調査委員会は、同病院で行われた腎臓の摘出6件は全て『適切又は容認』とする結論を発表したという。更に同調査委は『医療の選択肢として病気腎移植を完全に否定することは出来ない』として、下部組織である外部専門委員の医学的評価や関係学会の考え方に真っ向から対立した。

これに対し日本移植学会副理事長は『病気腎移植は原則的に認められる医療ではなく、容認できない。調査委員会の構成は身内ばかりで第三者が少なく、問題があった』と批判したとされる[読売新聞,第47050号,2007.3.4.]。

この調査委員会、委員13人のうち、9人が徳州会病院のスタッフや徳州会の専務理事ら徳州会関係者で、更に患者の聞き取り調査をしたのも徳州会が依頼した弁護士だということである。しかし、もし徳州会病院側が、病気腎移植の対応に万全の確信を持ち、自信があるのなら、委員の数を逆にした構成にしなければおかしいのではないか。

尤も、本心では疑問を持ち、将来、この問題が事件的な様相を呈した場合、病院の責任が追及されたのではかなわん。損害賠償請求があっては困る。何が何でも正当性を主張すべしということで、今回は徹底して医師の立場を擁護する側に回ったということかもしれないが、どんなに正当性を主張されたとしても、身内で固めた調査委員会の結論では、信用するわけにはいかない。

記者会見では、専門委員の見解を否定する報告内容に質問が集中したようであるが、徳州会の役員らは『臨床の立場とカルテだけを見た専門委員の立場は違う』『専門委員の意見は尊重している。今回の結論と並べて検討の材料にする』などとかわし続けたとされている。この病院側の主張は、万波医師の弁明と軌を一にするものであるが、どちらの立場に立って『臨床の場………』とおっしゃっているのか。

つまり患者の立場としては、病気腎を摘出された側と、その病気腎を移植された側とに分かれる。摘出された側は、摘出しなければ駄目だといわれて手術を受けたわけで、医師と患者の間に微妙な人間関係は生まれてこないのではないか。つまり手術が上手く行って、予後が悪くなければ、そこで医師と患者の関係は終わる。

一方、移植を受けた側は、永年の苦難から解放されたということであれば、医師との間に微妙な人間関係が生じるのではないか。更に移植したのは病気腎であり、一時凌ぎの移植ということであれば、次の事態に備える必要もあり、医師と離れるわけにはいかなくなる。

その意味で、『臨床の場………』といっているのであれば、やはりそこにきな臭いものを感じるのである。万波医師の判断は明らかに移植を受ける患者の側に針が振れている。何れにしろ一人の医師の判断で決められることではない。いや決めてはいけないことではないのか。

『何かいい加減な感じがしてきました』

市立宇和島病院で、病気腎移植を実施した患者の治療の終わっていないカルテが大量に廃棄されていたことが18日、明らかになった。調査委員会は「医療記録が失われてしまったことが、調査を大きく妨害した」と問題視。愛媛社会保険事務局は、戒告などの処分を検討している。

カルテは医師法で診療終了後5年間の保存を義務づけている。しかし病院は入院と外来のカルテを別々に作成。退院して5年たった入院カルテは、通院が続いていても廃棄しており、年度末にまとめて焼却場に運ぶか、外部業者に廃棄を委託していた。

病気腎移植の発覚後、「カルテが無く詳しい説明のしようがない。法律上の保存は5年。問題はないはずだ」と繰り返していた。また院長は「カルテを要約した『退院時サマリー』を作っていた。大量の書類は置き場所に困るし、分厚いカルテを読み返すのは手間」と弁明していた。厚生労働省によると5年の起算日は、病気が治ったと医師が判断するか、死亡、転院した時点。

患者の治療には当初から経過が解ることが肝心で、退院しても通院している患者のカルテは当然必要としている。社会保険事務局は「規則の理解が不十分で、明らかなルール違反」と病院に指摘した[読売新聞,第47065号,2007.3.19.]。

確かに仰有るとおり、病院というところは法令に基づいて保存する書類が多い。中でもカルテは、機械による管理を導入しようとすると、無闇に厚みを増すカルテは始末に負えない。何とかしようとすると、行き着くところは『サマリー』を作って、情報の要約を図ろうとしたくなる。

しかし、治療が継続している限り、カルテは患者の治療の歴史でもあり、もし万一の場合には、遡及的検索を求められる性質を有している。その意味では、現在、治療を継続中の患者カルテを5年が経過したとして廃棄したという行為は、蛮勇といわれても仕方がない。普通、医師は、診療中の患者のカルテを廃棄するのを厭がる。何だかんだと口実を付けて抱え込みたがるはずだが、よく説得したものだと感心する。

しかも病気腎移植を行った患者のカルテまで廃棄していたとすると、これは常識外の行為だといわなければならない。悪く勘繰れば、病気腎移植の事実を隠蔽する意図で、行った行為ではないかと思われてくる。

(2007.3.22.)