最終使用者は誰か?
水曜日, 8月 15th, 2007医薬品情報21
古泉秀夫
嘗て『医療用医薬品の最終使用者は医師である』とのたもうていたプロパー諸氏に行き会うことがあった。その思想性の発露として、彼らは最終使用者である医師に取り入り、処方せんに自社の薬の名前を記載してもらうために狂奔していた。
しかし、その当時も今も、医薬品の最終使用者は患者であり、利益と共に被害を受けるのも患者であった。
医師は自らが学んだ医学知識に基づき、患者の病状を判断し、その治療のために最適と考えられる薬を選択して処方するだけであり、その薬を服用するか否かを、最終的に判断するのは、やはり患者でなければならない。何故なら、例え医師が最適と考えたとしても、体質的に合わない薬があり、効かない場合があることも考えられる。また患者側からすれば、薬を服むことで、何等かの副作用が出るのではないかという恐れがあり、前に薬を服んだときに、えらい目を見たという記憶があり、できれば薬は服みたくないという、潜在的な回避意識がある。
最近、添付文書中に『重篤な副作用』という記載がされるようになったが、重篤という判断は何に対比して重篤と判定するのか。薬を服む患者側からすれば、単なる“食欲不振”は、単なる“食欲不振”ではなく、ヒトの生命維持の上で重要な役割を果たす食事が取れないということであれば、そのヒトにとっては重大な問題になるはずである。
薬を服めば下痢をする、眠れなくなる、あるいは陰萎(陰萎:インポテンス)に陥る等という副作用も、他人にとっては軽度の副作用ということかもしれないが、当事者にとってみれば、軽度の副作用ですませる話しではないのである。立ち居振る舞いが不自由なヒトにとって、治療目的で服用した薬の副作用で下痢が起きた場合、便所に行くこと自体が大変な労力を要する作業であり、頻繁な下痢が継続すれば、便所にたどりつく前に便漏れが起こり、下着を汚すということになる。
間に合わないなら便器を使いますかということから、やがてはおしめにしましょうということで、気がつけば寝たきりということになってしまう。薬を服むと寝付きが悪いという副作用も、特に命に別状のある副作用ではなく、放っておけば何時かは寝ているので、気にすることはないといわれるかもしれない。しかし、実際に目がギンギンになって寝付かれないという状態を経験すると、他人事だと思って、適当なことをいわんでくれるという気になるのである。
まして陰萎なぞはなおさらである。薬のためにその気が起きないのではないかとは、なかなか主治医にもいえない話題であり、患者が抱え込まなければならない精神的な負担である。このような副作用は、前もって患者に伝え、回避する方法があれば回避法を伝達しておくことが必要だろう。
そのような副作用は、病気を治すためには仕方がないという意見があるかもしれない。しかし、多くの福音があるから多少の害は我慢をすべきだという考え方は、薬を服むことのない健康人の発想である。添付文書に書かれている副作用の『重篤』度は、人命に関わる副作用か否かの区分であり、服用する患者の側からの区分ではないということである。
ところで最近、医療関係者の口から『患者様』なる言葉が発せられるのをよく耳にする。一般名詞に『様』を付けて患者主役の医療を提供しているといいたいのであろうが、呼ばれる患者の方は未だに眉に唾を付けて聞いているのではないか。そんなところに変な気を使うよりは、服む薬の期待されざる作用について、より具体的な説明と配慮をしていただいた方が、患者にとってはなんぼかましということである。
(2004.4.29.)