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これでいいのか-臓器売買

水曜日, 8月 15th, 2007

臓器移植により助かる命があることは理解している。しかし、その必要な臓器を手に入れるために、国外に出かけてまで手に入れるということになると、些か違和感を持つのである。特に幼小児の臓器移植の場合、国内では現在認められていないため、海外に行ってでもという募金活動が、美談としてマスコミに取り上げられるが、全ての臓器移植を必要とする幼小児が、対応できているわけではないということからすると、些か嫌な気がするのである。

国内法を速やかに整備し、幼小児の臓器移植が可能になるような手だてを講ずることが第一であり、その手だてを早めることこそ、マスコミが叱咤激励すべきことではないのか。まして一応の法整備がされている成人の場合、法改正が必要であるなら法改正を急ぐべきで、他国にまで行って金で臓器移植を受けるなどということは、国外から批判される前に止めるべきである。

しかし、どうにも信じられない話だが、フィリピン保健省は生体腎移植の臓器売買を公認する新制度導入を目指す公聴会を開催したという。更に政府方針を示す声明案が提示され、「国及び社会はフィリピン国民に対し、臓器の提供及び『報奨』、『感謝の贈り物』を社会から受け取ることを容認する」との文言が盛り込まれた[読売新聞,第47029号,2007.2.11.]とする報道がされていた。

臓器提供の『報奨』、『感謝の贈り物』を社会から受け取る等という、美辞麗句が並べられているが、結局は自国国民が臓器売買をすることを容認するということであり、国家としての決定に疑念を持たざるを得ない。

闇の臓器売買が日常的に行われている貧困層がある。臓器摘出後の提供者(販売者)の健康維持に問題があるため、制度化することによって販売者の身の安全を守るということのようである。しかし、国家が国民の貧困を改善する努力を放置し、臓器販売に手を貸すような立法化を図る等という感覚は理解の外である。駄目だといっても臓器売買は止まらない。それならば思い切って公然化するということのようであるが、取り締まりを強化しても止められないなら、何もかも公然化するという発想は、現代的な国家としては、後ろ向きの発想といえるのではないか。

単純化し過ぎだ、甚だ大雑把な解釈だといわれるかもしれないが、国民の貧困は、国家としての機能が偏り、利益の配分が適正に行われていないということではないのか。フィリピンにも大富裕層がおり、国内で富の生産が出来ないわけではない。その生産される富が、特定の集団に偏在しているということであり、富の分配の仕組みを変えることが必要なのではないか。

しかし、どういう発想から臓器の売買を認めるなどということになってしまうのか。更にそれを受けて他国から臓器の買い手が集まる等ということになるのか。

臓器移植は、誰かが死ぬことを期待して移植を希望する患者がいるわけではないはずである。死を迎えた人が、自らの意志で臓器を提供し、利用できるのであればどうぞということが基本のはずである。臓器移植をすれば助かる命があるから全て救うべきであるという考え方になったとき、臓器売買という発想が生まれてくるのかもしれないが、臓器を摘出する手術の絶対の安全性が保証されているわけではない。臓器摘出後に何等かの問題が生じ、命を失うことがあるかもしれない。その場合、誰が臓器提供者の命の保証をするのであろうか。それとも販売することを決めた当事者責任として、対処すべきことだとでもいうのだろうか。

(2007.2.24.)