劇場化-何かおかしくはないですか?
水曜日, 8月 15th, 2007鬼城竜生
最近の大衆報道、特に世間の事象に対するテレビの食い付き方は異常ではないのか。人はそれぞれいろんな意見を持っているのが当たり前で、個人的な考えに基づいて行動することが、許されるから自由主義社会ではないのか。
郵政民営化に反対したから公認は認められない。選挙区に関係なく、大衆的人気に依拠するあるいは職能団体として多くの票を握っている、挙げ句の果てには何の政治信条も示していない虚業家みたいな人間まで引っ張り出す。
それに対してテレビは、何の批判をするわけでもなく、やれ刺客だ、それ選挙の劇場化だのとうれしがり、声を大にして連日騒いでいるが、それでは単なる野次馬である。今、報道機関がやらなければならないのは、小泉氏のいう郵政民営化の実証的な検証と、到達象ではないのか。更に各政党が挙げている政策の実現性の検証も報道の重要な役割ではないのか。
郵貯の貯金額が多いから民業を圧迫するというが、庶民が郵貯を利用するのは、銀行との比較で安全だと本能的に考えているからではないか。更に民間企業も、民業を圧迫するから郵便業務を民営化するよう国に働きかけるのではなく、銀行預金の利息を上げて、郵貯より有利であることを喧伝したらどうだ。第一何時まで利子を支払わずに人の金で稼ごうと考えているのか。何かといえば、民業万能論を振り回す方々がいるが、アブク経済の時代土地転がしに狂奔し、あげく銀行を借金漬けにして国費の導入を求めたのは、民業万能論者の諸氏ではなかったのか。
郵貯・簡保で集められた金が『国債』に流れ、官僚の無駄遣いの原因になる。それを断ち切るためには『改革』が必要で、その改革こそが『郵政改革』=『郵政民営化』であるという理屈のようであるが、国債の発行を認めてきたのは自民党ではないのか。郵貯・簡保の資金が、自動的に公共事業や特殊法人に流れる仕組みは、既に2001年(従来、郵便貯金や年金などからの借り入れによって賄われていた財投計画は2001年4月から「財投債」の発行という形態に変更された。)に終焉を迎えている。
やれ高速道路を作れ、新幹線を通せ。都道府県のみならず、末端の市町村までが、箱物を作ることで自民党は政権を維持してきた。その全てが国債に依存して行われてきたのではなかったか。現在、郵貯・簡保は、運用先として政府の財政投融資計画(財投計画)に必要な資金をまかなう国債(財投債)を購入している。しかし、これは民間の金融機関もやっていることである。
いずれにしろ最大の問題は、政治家がそれぞれの出身地の権益を代表し、無闇に国の予算を引っ張り込みたがるところにあるといえる。その金は何処に行くかといえば、それぞれの地方の民間会社であり、会社の規模に関係なく、国民の金を食いまくってきたというのが我が国の実情である。
政治家が身の丈にあった財政の中で国の運営を指示すれば、官僚はそれに従って仕事をやるはずである。国家公務員が多すぎるというが、国会議員が官の仕事を増やし、役人を増やしてきたのではないのか。その反省無しに何の改革をしたところで、中途半端に終わる。今回の衆議院選挙、争点は『郵政民営化』賛成か反対かなどという単純な話ではなく、アジア地域における外交問題、少子化問題も含めて、この国の明日をどうするのかということではないのか。
(2005.8.24)