言論の自由と言論の暴力
水曜日, 8月 15th, 2007鬼城竜生
親が有名人であったとしても、独立して生活している子供の私的生活を、週刊誌などに書かれる筋合いはな い。田中衆院議員の長女が「週刊文春」の出版差し止めを求めたのに対して、東京地裁は2004年3月17日発売の同誌の出版を禁じる決定を出した。
言論の自由に係わる重要な問題を、一人の裁判官が短時間に判断するのはけしからんというテレビの解説 者も居たが、仮処分の決定は、緊急の判断を要するものであり、一人の裁判官が短時間に判断したとしてもやむを得ない。
「週刊文春」は審尋で、記事掲載の理由として『(長女は)政治家になる可能性もあり、公益性はある』と主張 したとされるが、言論の自由を錦の御旗にして、こんな揣摩憶測に基づく勝手な言い分が罷り通ったのではたまったものではない。
少なくとも一般人にとって、新聞・週刊誌・テレビという、いわゆるマスコミは、権力なのである。権力を持つも のは、その権力の行使に際し、細心の注意を払うのは当然のことであり、全てを言論の自由、国民の知る権利で切り捨てられたのではたまったものではない。更にいつも不思議に思うのは、『国民の知る権利』とおっしゃっ て、あたかも国民の代表のような顔をしているが、いったい誰が判定して週刊誌に国民の代弁者としての地位を渡したのか。少なくともあたしは一度もお願いした覚えはないが、誰かに委任状でももらったとでもいうのであ ろうか。
国民を代表するというのであれば、最低限国民としての常識は、持っていてもらわなければ困る。今 回の問題でも、マスコミ関係者の論調を聞いていると、あたかも正義の具現者は我なりといわんばかりの発言をされていたが、その思い上がりで、全てを律されたのではかなわない。無辜の民にも正義はあるのである。 ただ、無辜の民は何の権力も持たず、他人に影響を及ぼす範囲は甚だ少ないということである。
正義を具現 するなどという思い上がりに、どっぷりつかっていると、全ての判断が、正義であるという誤った思いに囚われる のかもしれないが、単なる私人を自分たちの勝手な思い入れで、公人扱いにしたということに明確な反省の意志を示すべきである。 東京高裁判断で、出版禁止の仮処分決定は取り消されたが、同時にプライバシーの侵 害は有るとするとともに、記事の公共性と公益目的を否定した。 少なくとも『表現の自由』という思想は、マス コミの横暴やマスコミの暴力を容認するために存在するわけではない。更にマスコミ人自らが、節度を持った対応をすることで守らなければ、守れきれるものではない権利だということを、常に自戒すべきである。
(2004.4.15.)
- 読売新聞,第45972号,2004.3.18.
- 読売新聞,第45986号,2004.4.1.